第四章
声は柔らかく、そしてひどく冷たい。まるで機械が人間の口調を模したような感情のなさ。
あまりの不気味さに「連れてきたのはあなたなのに」という言葉を真白は飲み込んでしまった。
男は黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばしていた。年齢は五十代半ば。鋭い目元と整った顎のライン、だがどこか、彫像のような非人間性を感じさせる。
「私はこの組織の最高責任者、アンゼル・オルバイム。あなたたちを永遠へ導く者です」
真白は応えなかった。表情も変えず、ただ男を見つめていた。直感的に、それは偽名であると推測した。
「恐れることはありません。あなたの美しさ、透明さ、感情の奥にある空白こそが、我々が求めてきた純度なのです」
アンゼルは言葉を滑らせるように、淡々と語る。
「このカプセルに入っていただきます。塩の儀式は、穏やかに、しかし着実にあなたを聖なる像へと変えてくれる」
真白はカプセルを見つめた。透明な素材でできており、内部には細い管が何本も這っている。真白は、わずかに眉をひそめた。
「あなたは、わたしを否定してる」
「いいえ」アンゼルは首を横に振る。
「むしろ肯定しています。あなたのような存在は他にない」
それは、理解ではなく、崇拝でもなく、ただ冷たい観察者の論理だった。
アンゼルはゆっくりとカプセルに近づき、その表面に手を置いた。
「あなたの空白には、特別な意味があるのです。かつて私も、あなたのような少女を見たことがあります」
「私のような……?」
「そう。完璧に見えて、内側には何もない少女を......」
アンゼルの声に、初めて感情が混じった。それは懐かしさと、悲しみと、どこか歪んだ愛情が入り混じったものだった。
「彼女の名前はサラ。完璧なアイドルでした」
アンゼルの目が、遠くを見るように細められる。
「ですが、彼女は自ら命を絶ちました。『私は腐りたくない、変わりたくない』と遺した言葉とともに」
真白は静かに息を吸った。それは、彼女自身が時に感じる感覚だった。
「サラは私に、永遠の美を追求するよう導いたのです」
それ以上の説明はなかったが、その言葉の裏に隠された執着と狂気を、真白は直感的に理解した。アンゼルの瞳に異様な光が宿る。
「彼女は私に、永遠の美を追求するよう導いたのです。そして私は彼女の亡骸を、最初の塩像に変えました――それ以来、私は考えました。人間の理想像を固定化する方法を。その苦しみから永遠に解放する術を」
彼は真白を見つめ、静かに微笑んだ。
「それが、『塩の柱』です」
やがて、二人の沈黙を破るように、機械の作動音が響く。
「始めましょう。Re:Veilの起点として、ぜひともあなたには最初の儀式を受けて頂きたい」
選択肢はなかった。真白は数秒ののち、ゆっくりとカプセルに足を踏み入れようとした。
「お待ちください。その前に……あなたには衣装を選ぶ権利がある」
アンゼルが静止すると、ハンガーにかけられた無数の衣装が運ばれてきた。普段着、レッスン用のスポーツウェア、学校の制服だけでなく、水着、運動着、ひいてはナース服など……あらゆる要望に応えられる態勢が整っていた。
「だったら、私はこれがいい」
真白が選んだのは、先日のライブで着たアイドル衣装だった。どうせなら最大限に輝いていた自分を残したい。それは純粋な意思であった。
「では、カプセルの中へどうぞ」
真白は着替え終わると、操られたようにすんなりとカプセルの中へ入った。冷たい金属の床。背後から、透明な蓋が閉じる音がした。中には、冷たい液体がゆっくりと注がれ始めていた。だが、それよりも早く、彼女の意識は別の空間に落ちていった。
声が、響く。
「どうして、そこに立っていられるの?」
光が強くなる。熱すら感じる。真白は、何かを掴もうとするように胸元を押さえた。ステージの床が、微かに震えている。
観客たちは誰も動かない。ただ、静かに、問いを投げかけてくる。
「誰のために、笑ってるの?」
「それ、本当に君の気持ち?」
「本当は、何も感じてないんじゃない?」
「もっとあなたを見せて」
「もっと壊れて」
ひとつ、またひとつ、声が増える。だれが喋っているのか、わからない。だが、そのどれもが、真白の中に確かに存在していた疑問だった。声は徐々に歪み、耳障りになっていく。
何度もステージに立ち、笑ってきた。涙も見せたし、手を振ってきた。でも、それが誰かに届いたと、本当に信じられたことは、あっただろうか。
「私は……」
言葉が、喉につかえる。吐こうとするほどに、胸の奥が冷たくなる。
「……私は、なに?」
照明が一斉に消える。舞台に、真白ひとりが残される。光のない空間。暗闇。音のない孤独。
そのとき、彼女の足元から、塩の粒が音もなく浮かび始めた。白い結晶が空気中に溶けて、真白の指先に、髪に、静かにまとわりつき、噛みつくように食い込んでいく。
冷たい――痛みを伴う冷たさだった。骨の髄まで染み通るような、呼吸すら凍りつかせるような冷気。皮膚の下で血管が凍りつく感覚に、真白は悲鳴を上げようとした。
――このまま、消えてしまえたら。
真白の中で、何かが砕けた。
「やだ……やだ、やだ、やだ……! 私、消えたくない! 誰か、私の声を聞いてえっ!」
真白は叫んだ。初めて感情を剥き出しにしたような声だった。指先が、塩の膜に包まれていく。皮膚がきらめく結晶に変わっていく。塩の先端が体の奥深くに突き刺さり、神経が一本ずつ確実に死んでいく感覚。それなのに、意識だけは鮮明に残る。
「笑っていられるだけでよかったのに! なんで……なんで、わたしばっかり……っ!」
涙が零れ、頬を伝うより先に、その涙もまた塩に変わっていった。喉が乾き、舌が砂を噛むような感覚になる。
塩が内側から骨を結晶化させているような痛みに、真白の顔が歪んだ。そして、痛みがあまりに強すぎて、彼女の表情が凍りついたように笑みになった。恐怖と痛みの境界を超えた、狂気のような微笑み。
そして――その瞬間、真白の全身が、一気に塩に覆われた。まるで瞬きをするように、塩の柱が完成する。指先、唇、睫毛の一本一本にまで、光が宿っているようだった。しかし、その表情は無邪気に笑うというより、恐怖に狂ったような微笑みを永遠に留めていた。
無音の世界。塩化した真白の意識は、どこか奇妙な精神の平面をさまよっていた。そこで見たのは、自分自身が千切れていく光景だった。腕がもぎ取られ、目玉が抜かれ、それでも彼女は微笑み続けている。
周囲には無数の「真白」が浮かんでいる。それぞれが違う表情で、違う仕草で、だが確かに「真白」として存在している。
「これが……私?」
白い空間に、真白の声だけが響く。彼女の周りを、無数の「声」が取り囲み始めた。
「私たちを見て」
「もっと痛がって」
「壊れて、砕けて」
「永遠に輝く像になって」
それは、どこかで聞いた声だった。ファンの声。スタッフの声。知らない人の声。だが、いま彼女の耳には、それらがすべて「所有」を求める叫びに聞こえる。
「私を……食べないで」
真白は膝を抱え、震えながら自分を守るように丸くなった。だが、声はやまない。むしろ強くなる。
床から無数の仮面が生えてくる。舞台照明のように、ひとつひとつが彼女を見つめている。その目が血走り、口から涎を垂らしているように見える。
真白はその仮面の上を裸足で踏みながら、ただひとりで踊り続ける。足の裏が切れ、血が流れるのに、踊り続ける。最後に、仮面の中央にあった鏡のような面に自分の顔が映る。
そこには、狂ったように笑う少女がいた。瞳の奥には恐怖のみが残り、それでも表面では笑い続けている。
監視室。数人の白衣の人物が、ガラス越しにその様子を見守っていた。
「第一被験体、塩化完了」
「精神反応、臨界ラインを超えて沈静化。完全固着」
「美しい……この恐怖の表情。これこそ私が求めていた真の姿」
アンゼル・オルバイムが呟く。その表情に感動はない。ただ、観察者としての静謐な陶酔だけが宿っている。
「彼女は、自分の空白を美に変えた。これが、最初の像……Re:Veilの起点」
塩の柱となった真白は、カプセルの中で静かに立ち尽くしていた。笑顔のまま。それが作られたものであっても、そこに至る過程が苦悶であったとしても。誰よりも、完璧な聖像だった。
三人は知らなかったし、これからも知らないだろうが……Re:Vailの結成は、実は所属事務所が仕掛けた壮大な実験だった。一見ランダムに選ばれたように見えた三人だが、実際は精緻なアルゴリズムによって選出されていた。
データ分析チームは、彼女たちの補完性を指摘していた—真白の透明な空虚さ、ほのかの熱量ある仮面、柚の柔軟な自己消去。これらが組み合わさることで生まれる化学反応を、彼らは予測していた。
そして三人は、その期待通りの結果を出した。初めての合宿でのぎこちなさ、初ステージでの緊張、そして徐々に形成される絆。事務所が作り出した「偶然の出会い」の物語は、実際には綿密に計画された感情操作のプロジェクトだった。
彼女たちの関係性さえも、商品として設計されていたのだ。
次の部屋のライトが点いた。アンゼルが、そちらを見やる。
「続けましょう。次は、仮面の舞踏者だ」
隣に立つ研究員が手元の端末を操作し、何かのデータを入力する。
「真白さんとの差異を測定するために、パラメータを調整します。今回の被験者は精神的抵抗が強いと予測されます。注入液の濃度を10%上げましょう」
「いいえ、このままで」アンゼルは静かに微笑んだ。
「朝倉ほのかさんの場合は仮面が剥がれるとき、自然と塩化が進むでしょう」
その言葉に、研究員たちは黙って従った。彼らの背後で、真白の塩像が月光のように静かに輝いていた。
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