第二章
最初に目覚めたのは、花隈真白だった。
閉ざされた空間。壁も天井も床も無機質な白に覆われ、唯一の出口らしき扉には鍵がかかっていた。空調の音だけが耳にまとわりつく。天井に設置されたライトは明滅しており、時間の感覚が掴めない。
真白は、まっすぐに起き上がった。混乱や叫びはなかった。瞳だけが深く静かに揺れている。
何が起きたのか、どこにいるのか、そのすべてを理解するにはまだ時間が必要だったが、彼女の中には確かに「何かがおかしい」という直感があった。
服は車の中にいた時と同じ服だったが、腕には細い金属のブレスレットが巻かれていた。触れようとすると微かに熱を帯びていて、電流のような刺激が走った。拘束具の一種なのか。
部屋の隅には水と栄養バーが置かれていた。ベッドとトイレ、簡易的な洗面台。最低限の生活設備が揃っている。だが、それはあまりにも整いすぎていて、まるで「ここに長くいることが前提」のようだった。
真白は、壁際に座り込み、自分の呼吸を整える。
彼女は小さいころから、感情の起伏が少ないと言われていた。泣くことも少なく、笑うことも控えめだった。そのことで母親を心配させたこともある。
「真白、どうして笑ってくれないの?」
幼い頃の記憶。母の眉間にあった、不快を表すしわの線。
「お母さん、心配してるのよ。どうして、みんなと同じように笑えないの?」
真白は当時、答えられなかった。どうやって笑えばいいのか、どうやって他の子と同じように振る舞えばいいのか、わからなかった。
ステージに立つようになってからも、そのことは変わらなかった。彼女は技術で、練習で、身体の動かし方を覚えることで、その「欠落」を埋めようとした。
そして、気づけば、彼女はアイドルになっていた。感情の薄さが「透明感」と呼ばれ、人々に愛される存在になっていた。
そんな記憶の断片が脳裏をよぎったとき、彼女は気づいた。
柚と、ほのかの気配がない。それが何より恐ろしかった。真白は、その恐怖を顔に出すことなく、ただ静かに部屋を見渡した。
監視カメラがあるとすれば、左上の角だろう。わずかに影が動いたような気がする。彼女はそちらに視線を向けずに、壁を見つめながら考えを巡らせる。
この状況——拉致、監禁。それは明らかな犯罪行為だ。だが、なぜ自分たちが?
Re:Veilは確かに人気があった。だが、世間を揺るがすほどの大物というわけでもない。身代金やテロリズムが目的なら、もっと別の有名人を狙うはずだ。
この部屋の異様な清潔さ。まるで病院か研究施設のような無機質さ。その異様さが真白の心の脆さをさらに刺激する。
「……ここは、何のための場所?」
真白は小さく呟いた。自分自身に問いかけるような声だった。
――次に目覚めたのは朝倉ほのか。彼女の部屋もまた真白と同じように、白く閉ざされた無機質な空間だった。
「……チッ。マジかよ」
ほのかは舌打ちをして天井を見上げた。彼女にとって、自由を奪われることは何よりの侮辱だった。何者かに管理されることに、激しい嫌悪を抱いている。
まず扉を調べ、蹴ってみる。反応はない。次に天井のライト、壁の構造、監視カメラの存在……一つ一つを、早足で確認していく。
「……絶対、ただじゃ済まさないから」
拳を握り、唇を噛み締める。けれど、その裏では、静かに震える心があった。
「柚……真白……」
部屋に響くのは、自分の呼吸と鼓動だけ。それがあまりにも空虚で、ほのかは思わず天井に向かって叫んだ。
「誰かいるんでしょ!? ふざけないで出てきなよ!!」
返事はなかった。ほのかは壁を叩き、床を蹴った。何度も、何度も。何度も!
やがて彼女は、床に膝をつき、深く息を吐いた。
「……このままじゃ、体力なくなる」
彼女は自分を制した。冷静に、現状を分析しなければならない。 だが、その冷静さの裏には、恐怖があった。
――ほのかは、十三歳のとき、一度だけ閉じ込められたことがある。学校の体育倉庫。「みんなで鬼ごっこをしよう」という誘いに乗せられ、倉庫に入ったとき、後ろから鍵がかけられた。
暗闇の中、彼女は叫び、泣き、そして最後には壁に向かって何度も体当たりを繰り返した。肩が痣だらけになるまで。二時間後、先生に発見されたときには、もう声も出なかった。
「朝倉さんってさ、いっつも強がってるから、ちょっと懲らしめたかったんだよね」
犯人の女子がそう言っていたと、後で友人が教えてくれた。
それ以来、ほのかは「強さ」を纏うようになった。 弱みを見せれば、必ず誰かに利用される。 そう信じるようになった。
ただ、それは彼女の素顔ではなかった。本当の彼女は、もっと弱く、もっと繊細だった。だが、その素顔を見せるのは、あまりにも怖かった。
「私が私でいられるのは、強いときだけ」
そう思い込んでいた。 デビューしてからは特に。
「朝倉さんって、いつも元気だよね」
「ほのかちゃんがいると、場が明るくなるよ」
「その明るさが武器だよね」
そんな言葉を受け続け、彼女はますます「強い自分」という仮面を手放せなくなっていった。
「……どうせまた、誰かの思い通りになるだけなんでしょ」
ほのかは床に寝転がり、天井を見上げた。その目には、怒りだけでなく、深い疲労感が宿っていた。
――水瀬柚の目覚めは、他の二人のそれよりずっと遅かった。柚は、ベッドに横たわったまま、まるで夢から覚めきれないかのように瞬きをしていた。
「……ここ、どこ……?」
目の前に広がるのは、白い天井。記憶をたどろうとしても、車内での煙のことしか浮かんでこない。
手を伸ばし、周囲を確かめる。そして彼女は、ぽろりと泣いた。
「いやだよ……やだ……こんなの……」
小さな嗚咽。子供のような泣き声。彼女にとって、ひとりでいることはなによりも辛かった。誰かの手が触れていてくれないと、自分がここにいると信じられなくなるから。
柚は涙をぬぐい、ゆっくりとベッドから降りた。白い壁。白い床。小さな洗面台とトイレ。それだけの空間。
「……真白ちゃん、ほのかちゃん」
彼女は二人の名前を呼んだ。当然、返事はない。柚は窓のない部屋を見渡し、そっとため息をついた。
彼女の記憶には、いつも「ひとりぼっち」の感覚があった。父親は柚が五歳のときに家を出た。残されたのは彼女と母だけ。最初のうち、母は明るく振る舞っていた。
「大丈夫、お母さんがついてるから」
だが、それは長くは続かなかった。 母は次第に、酒に溺れるようになった。そして、酔っているときの母は、別人のようだった。
「なんであんたなの? なんであんたが残ったの? あの人が出て行ったのは、あんたのせいなのよ!」
柚は、そんな母の言葉を何度も聞いた。 そして、彼女はいつしか気づいていた。
「私がいなければよかったんだ」
だから彼女は、自分の存在感を消すようになった。
常に謝りながら生きるようになった。「ごめんなさい、ごめんなさい」と。
そして、もう一つの方法を見つけた。 それは誰かの役に立つこと。
何かの役に立てば、自分の存在が許される。 誰かの助けになれば、そこにいていいと言ってもらえる。そんな思いが、彼女を「アイドル」という道へと導いた。
「みんなを笑顔にできる存在になれば……」
柚は、床に座り込み、膝を抱えた。
「どうか……二人が無事でありますように」
祈るような声で、彼女はそうつぶやいた。
どのくらいの時間が経過したのかさえわからないが、三人はそれぞれ別々の部屋で、別々の形で恐怖と向き合っていた。
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