第42話 あの時の音
『すみません、やはり背景の色をもう少し淡い色にして頂きたいです。』
『了解しました。どこのページの背景のお話でしょうか。』
『社員紹介のページです。』
『どの位の色がご希望でしょうか。カラーサンプルが載ったリンクを送信しますので、
ご希望の色をお教え下さい。』
私はパソコン上でリンクをコピーし、チャット欄に貼り付けた。
コーヒーを飲みながら、相手の反応をゆっくり待つ。
どんな色にするか悩んでいるのだろうか。
数分経っても返事は返ってこない。
違う作業にでも取り掛かろうかとしたその時。
『やっぱり、直接話せる人に依頼します。すみません。
手付金はお支払いしますので、この件は契約終了でお願いします。』
ああ、まただ。
私はその文章をもう一度確認してノートパソコンを閉じた。
返信する気も起きなかった。
私は生まれた時から、耳が聞こえない。
両親の声も、自分の声すら分からない。
風で草木がたなびく音も、車のエンジン音も、猫の鳴き声も何一つ分からない。
コミュニケーション手段は、手話と筆談。
今はデジタル家電が普及しているので、先ほどの様にチャットなどでも会話している。
聾学校を卒業した後、就職をするのには数々の難題があった。
一度、聾学校が斡旋していた工場に勤務した事もあったが、
毎日毎日淡々と同じ作業をするのに嫌気が差した。
指示をくれれば、後は作業するだけ。非常に効率的だ。
だが私はロボットではない。
迎え入れてくれる企業があるだけ有り難かったが、
単純に私には向いていなかった。
だからと言って、他に就職先を選べる立場でもない。
なので私はオンラインの講座でウェブデザインの勉強をした。
元よりやりたかった仕事ではあったし、
クライアントとはチャットでのやり取りで完結出来る。
だが、やはりそう甘くはなかった。
単価が安い分、仕事はそれなりに依頼は来る。
だが、やり取りをする中で、
「直接話せる人と仕事がしたい。」と何度断られてきた事か。
自分が耳が聞こえない事、やり取りはチャットのみと
最初に記載しているのにも関わらず、結局違う人へと依頼が流れていく。
クライアントにしてみればデザインに関して、こだわりがあるのも分かる。
ここをこうして、と口頭でやり取りできればどんなに楽な事かもよく分かる。
分かるけれど、私には出来ないんだ。
大きくため息をついて、ノートパソコンをまた開いた。
『かしこまりました。またご縁があったらよろしくお願い致します。』
私はそう返信をして、今度こそパソコンの電源を切った。
自室を出て、居間に向かうと母親が手話で
『仕事、終わったの?早いね。』と言った。
私は顔を顰めて、
『また断られた。進んでたのに、全部無くなった。』と手話で返した。
キッチンへ向かい冷蔵庫の中からジュースを取り出し振り向くと、目の前に母が立っていた。
『何?びっくりした。』
ジュースを一旦置いて手話をする。
母は怒った顔をしていた。
『あなたのせいじゃない。』
その後も母親は、私に向かって励ましの言葉を繰り返した。
母を宥める様に私はゆっくりと微笑みながら頷く。
これは演技だ。
ここで私が何か議論を始めると、
母親は最終的に『耳が聞こえないのは私のせい。ごめんね。』と泣くに決まっている。
今まで何度見た光景だろうか。
『まだ、他の仕事あるから。じゃあね。』
私は母にそう手話で告げて自室へ戻った。
そうは言ったが戻ったところで、仕事なんてない。
ただ母から上手く逃げたかったのでそう伝えただけだ。
どうか次の仕事では、上手く行く様にと願うばかりだ。
喉が渇いていたが、先ほど母と手話をする際に、
うっかりジュースを置きっぱなしにしてしまった。
項垂れながらベッドに横たわり、枕に向かって唸った。
それがどんな声なのかも分からないけれど、母に聞こえない程度に赴くまま声を出した。
ふと、気がつくと私はカフェの店内にいた。
先ほどまでベッドにいた筈だが、
私は今カフェの窓辺のカウンター席に座っている。
夢でも見ているのだろうか。
私は自分の周りを見渡した。
だが、そんな事どうでも良かった。
店員の話し声、食器が擦れる音、人々の笑い声。
私に、音が聞こえている。
カフェのドアが開くと「チリン」と鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ。」店員が笑顔でそう言った。
客は「カプチーノ1つ。ホットでお願いします。」と言う。
「ありがとうございます。」店員が言った。
カプチーノ。
文字では沢山見てきたけれど、ああやって発音するのか。
私も声に出してみる。
「カプチーノ…。」
自分の声が聞こえる。
「え、え、え!何で!?」
叫んだ私の声もしっかりと聞こえてきた。
だが不思議な事に声が「聞こえる」と言うより、
「心に届いてくる」と言った感覚だった。
カフェの中で1番大きな声を出していた女性を
「ちょっとうるさいな。」と思うと、ふっとその女性の声は消え去る。
試しに店員の声を「聞きたくない」と思ってみると、
店員は何かを話していたが、一切声は聞こえなくなった。
次に、もう一度店員の声が「聞きたい」と念じたら、
声が聞こえる様になった。
音は「耳」ではなく「心」が拾うものなのだろうか。
夢の中でもこんなにも鮮明に聞こえてくる音達。
果たしてそれが合っているのかも分からないけれど、私はこの状況を大いに楽しんだ。
初めて聞く鳥の囀り。
コーヒーをカップに注ぐ時にコポコポという心地よい音。
子供が走った時に、床が軋む音。
私にはどれもが新鮮で、どの音を聞くのも嬉しかった。
これが皆が日常的に暮らしている世界なのか。
カフェを後にし、私は街中を歩いていた。
木が揺れる音、どこからか聞こえる赤ちゃんの鳴き声、
沢山の人々が話している声。
最初こそ楽しかったが、
それと同時に「うるさい」と思う気持ちも芽生えてきた。
私は一切の静寂の中暮らしてきたので、この雑多音は耐えられないほど煩く感じる。
これ以上あまり聞きたくない音を、心の中で「聞きたくない」と念じる。
そうすると、結局耳に届く音はどんどん少なくなっていった。
「あれ、これじゃあ今までと変わらない…。」
私がそう呟いた瞬間、2人の男性が目の前に立ちはだかった。
「AUPDのアマギリと申します。」
私に向かってそう言った。
男性の声を近くで聞くのは初めてだった。
カフェにいたあの大声の女性とは全然違う。低くて、凛とした声だと思った。
「俺はセイガ。よろしくね〜。」
黒髪の男性が手を差し出したので咄嗟にこちらも握手した。
この人の声はもっと低く、だが安心する様な声だった。
同じ男性でも、こんなにも声は違うのか。
私は驚いてマジマジと2人を見つめた。
「あなたは今、別の世界線にきています。それを移送させて頂くのが我々です。」
アマギリさんは淡々とそう告げた。
「あ、心の中で聞きたくないなんて言わないでね。大事な話だから。」
セイガさんが間髪入れずにそう言った。
そう言って、彼らは私が今夢を見ているのではなく、
別の世界に越境してしまっている事を話してくれた。
また、今ここにいたという体験を持って同じ世界線に戻すと、
矛盾の連鎖反応で世界線が壊れてしまう可能性があるので、
元の世界線に限りなく近い世界線へ移送する、と言う事を告げた。
「聞こえる世界とも、お別れか。」
私は心の中で呟いたが、彼らの心にも届いていた様だった。
「じゃあ、移送しますね。」
アマギリさんは、手首につけている機械の様な物で何か操作をした。
次に目を開くと、私は自室のベッドで横になっていた。
先ほどまでと同じ様に。
先ほどまでとは打って変わって、ここは静寂に満ち溢れている。
「あ、あー。」
私は自分で声を出してみたが、やはり聞こえなかった。
次の日、1人でカフェに行ってみた。
晴天でカラッと晴れた良い天気だった。
歩いていると、風で草木が揺れているのが見える。
自然とあの時聞いた音が思い出される。
カフェに入ると、入り口のドアにベルが付けられており開いた瞬間ベルが揺れた。
「チリン」
私の頭の中で、あの金属が触れる音が蘇る。
店内を見渡すと、沢山の人で賑わっていた。
店員へスマホを差し出し、カプチーノを1つ頼んだ。
「ありがとうございます。」
店員が笑顔でそう言った。
聞こえない。
でも私はもう「ありがとう」がどう言った音なのか分かっているのだ。
鳥が囀る声も、赤ちゃんの鳴き声も、女性達の笑い声も。
心の中にしか音はないけれど、
それだけで世界が少し広くなった気がした。
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