第11話 一言が、彼女を殺した


「ジン、いい加減にしてよ!ねえ!」

甲高く響く女の声に、嫌気が差す。


目の前で大声を出して俺を責める女。

彼女とは付き合ってもう5年の月日が経つ。


付き合う事になったきっかけは、友人からの紹介だった。

彼女の容姿に一目惚れをした俺は、猛烈なアプローチをして彼女に接近した。


そんな俺とは違い、彼女の方は最初俺にそんなに興味はなかったと思う。

それでも色んな場所へ誘い、何度も好きだと言い続けた。

デートの度に告白し、振られた。


でも俺は諦めなかった。

だって、そもそも俺が嫌いであれば、彼女は俺の連絡を遮断し、会わなければ良い。

だから、デートの約束が決まる度に俺は今回こそは、と意気込んで出かけたのだ。


何回目かの告白の後、ようやく彼女は俺を受け入れた。

今まではあまり男性との経験がなかったらしく、

最初、俺の告白はからかわれているのかと疑心暗鬼だったと言う。


だが、デートを何度も重ねる内に、俺の事を好きになってくれたと言った。

その日は世界で1番幸せだったし、彼女の事は大切にしようと心に決めた。

全然早いけど、将来この人と結婚したい、と強く思ったのを覚えている。


「なんで、私が嫌がる事ばっかりするの!」

つんざく様な鋭い声で、俺は現実に戻った。

彼女、ナナが目の前で泣いている。


出会った頃のナナは明るくて、とても魅力的な人だったのだが、

この1年で彼女の母や父が立て続けに病気で亡くなったり仕事での理不尽な出来事が重なり、

ある日心が壊れてしまった。


少し前から、その前兆はあった。

同棲をしていたので、彼女の様子は俺が近くで一番見ていた。

話をしていても彼女が目が合わせなくなったり、徐々に笑顔が減り、喜怒哀楽も無い様な真顔の表情でいる事が増えていた。

悩んでる事があるなら言って、協力するよと伝えても、下手な作り笑いで「何でもないよ」と言う。


ある日、彼女が「行ってきます。」と言って玄関を出ようとした時、

キッチンで水を飲んでいた俺は、彼女の弁当箱が置き忘れている事に気づいた。


「ナナ!」

声をかけると、彼女は玄関の扉に手をかけた状態で固まっていた。


「弁当忘れてるよ〜。」

俺はそう言って渡そうとするも、ナナは動かなかった。

俺の言葉が聞こえていない様にまったく動かなかった。


彼女は静かに泣いていた。


「大丈夫?」と後ろから抱きしめると、「扉が、開けられないの。」と真っ直ぐに扉を見つめて呟いた。


そのまま泣きじゃくるナナをベットに寝かし、彼女の会社へ連絡をした。

退職する事、手続きは自分が代行する事を伝えた。

その日は泣きじゃくる彼女を「大丈夫だからね。」と言って1日中抱きしめた。


彼女の心は完全に壊れていた。

何日かした後、病院に行って薬を処方してもらったがやはり笑顔は戻らない。

睡眠薬や薬の影響もあり、ベットから出られない日々が続いた。


そんな日々が続く中、彼女は突然「感情」と言うものを思い出したかの様に、

ある時は思いっきり泣き、ある時は感情に任せて大いに怒った。

泣いたきっかけは「雨だったから」、怒った原因は「俺の生活音がうるさかったから」

そんな些細な事でも、彼女は全力で泣いたり怒ったりした。


その中でも最悪なのは、日々希死念慮が強くなっている事だった。


彼女は「死にたい。」と口癖の様に呟く様になった。

俺はその度に「死なないで。一緒にいるから。」とパニックになっている彼女を抱きしめた。


だが、支える俺にも、限界が来ていた。


どうにも自分は相手の感情に引っ張られてしまう部分がある。

相手が泣いていると自分も悲しくなり、相手が怒っていれば自分も怒りを感じてしまう。

一貫して、相手の感情に飲み込まれまいと立ち向かっても、結局抗えずに自分の心まで病んでしまう。


そんな生活が数ヶ月続いた頃。

自分が仕事から帰ったら、部屋の中で彼女は何かに怒り狂っていた。

どうしたのと落ち着いて抱きしめるも、彼女は俺のノートパソコンを指差して鋭い声で話す。


「なんで、私のことを他人に勝手に話しているの!?」


そこにはネットで知り合った複数人のグループのチャット履歴が表示されていた。


俺自身も疲れてしまっていたので、誰かに気持ちを吐き出し助けを求めたかった。

そんな中ネットで調べている内に、同じ様にパートナーが精神を病み、苦しんでいる人達が大勢いる事を知った。


見せつけられたそのチャットも、同じ様に苦しみを持っている人と気持ちを共有する事が出来る、

俺にとって大切な居場所だった。


気持ちを吐き出し共感してもらい、心が軽くなる。

なので、ナナの事についても包み隠さずチャットでやり取りをしていた。

俺の失態だ。その内容は本人が見たら実に残酷だったと思う。


「ナナが死にたいと言っているが支えられない、自分も死にたくなってきて、苦しい。」

「ナナがいなければ、もう少しマシな人生送ってたかも。」


俺が書き込みしたチャットをナナが読み上げた。


俺は心底申し訳ない気持ちになるが、実際自分の心の限界を迎えていた。

突然泣き出してはベランダまで走り自死を望む彼女、怒り狂って罵声を上げながら物を投げる彼女。

自分ではもう、どうする事も出来なかったんだ。


「勝手に話してごめん、ただ俺も…」

「何よ!私が悪いの!?私がいなければ、あなたは幸せなのね!?」

遮る様に泣き叫ぶナナに、もう何かを言い返す気もなかった。


泣きじゃくり、過呼吸になりそうな位息が上がっている彼女にただ一言「ごめん。」と告げて、

俺は逃げる様に玄関を飛び出した。


心臓が破裂しそうな位痛かった。彼女の怒りが自分にも伝染しているのが分かる。

苦しい、悔しい。涙が出てくる。俺は彼女を助けたいだけなのに。

あのチャットの様に、俺に共感してくれる場所がなければ全てが爆発しそうなだけだったのに。


ただ、自分から逃げ出した癖にナナの事が本当に心配だった。

彼女は彼女で苦しい思いをしているのに、今日、俺は見放したのだ。

飛び降りでもしたら…。急いで自宅のベランダを見るも、幸いナナの姿はなかった。


急いでメールを送る。

【今日は本当にごめん。また、明日ちゃんと話そうよ。絶対帰ってくるから。】


ウロウロと家の周辺を歩きながら、自分の気持ちが収まるのを待った。

だが歩いていたその時、目の前が急にチカチカと光った。




「あれ…ここどこだ?」

涙を拭きながら周囲を見渡すが、その光景に驚く。


自分が今目の前で見ているのは逆さまになった建物だ。


それどころか、建物は上にも下にも横にもどこにでもある。

不思議に思い、後ろを向うとした瞬間自分の体が異様に軽い事に気付いた。


怖くなって勢いよく後ろ振り向いたら、くるりと自分自身が1回転してしまった。

気持ちが悪くなり地面を見てみると、自分の足は地面についていなかった。

あれ、と思い地面を踏む様に力強く足を押してみても、

トランポリンに乗ったみたいに地面に足はつかず、その反動で自分が浮き上がってしまう。


人がいないか、と確認すると少し先に男性がいた。


「すみません!」

大声で声をかけると、その人は俺に気付いた様で足を数回宙で蹴ったかと思うと、勢いよくこちらに向かってきた。


「どうしました?」


男性が、焦った様子でこちらに声をかける。


「あの!ここはどこですか!?何で地面に足がつかないんですか!?」

捲し立てる様に話をすると、男は不思議そうに言った。


「地面?どこの事かな。」

「いや、普通地面があって、その上に人が立って、建物があって…ここ普通と違うじゃないですか!」

俺は要領の得ない会話にイラついて、その人の胸ぐらを掴んだが重さを全く感じなかった。

むしろ軽すぎて、それに引っ張られてその人はそのまま上に飛んだ。

その男性は、俺の事を上から見下ろしながら、奇妙な目で告げた。


「あなたは何故その【地面】と言う物を求める?」


そのまま男性はこちらを一瞥して去っていった。

向うにしてみたら、俺は急に胸ぐらを掴んだ完全なる不審者だ。


「…何がどうなってんだよ!!!!!」


怒りのコントロールが出来ず、大声で怒鳴る。

その瞬間ナナの事を思い出した。

自分の中で理解出来ない事があると、怒る。

多分、今の俺の感覚が、ナナの中には常にあるのではないだろうか。


ナナの姿を思い出し、また涙が出てきた。

ああ、逃げるんじゃなかった。逃げちゃいけなかった。

自分も追い詰められている状況をちゃんと説明して、彼女に話すべきだった。


【ナナがいなければ、もう少しマシな人生送ってたかも】


確かに心が弱りきった時に、そんな書き込みをしたのは事実だ。

その一文だけ、その言葉だけ見てしまえば、確かに自分は最低最悪の男だ。


だが、それだけじゃない。それだけじゃないんだ。

彼女の事は付き合ってからも、ずっと好きだ。だからこそ安心出来る様に支えていた。

ナナの症状が治ってきたら、彼女に結婚を申し込む予定だった。

完全に治らなくても、良い。

ずっと俺が支えていられる様にしたかったんだ。


「すみません。AUPDのアマギリです。こちらがセイガさん。あなたを移送する為にこちらに出向きました。」


突然の声にハッとする。

横を見ると先ほどまではいなかった筈だが、突然男性2名が現れた。


「は?」

呆気に取られていると、アマギリさんが言った。

「あなた今、別の世界線に飛んでるんですよ。ここ実は重力って言う概念が発達していない世界線でして。あの様にバカみたいにクルクル回れちゃうんですよ。」

そう言って、ため息をつきながらもう1人の男性を指差す。


その、セイガと言う男は器用に自分自身をクルクルと、まるで側転をしている様に何度も回っている。


「え、俺って今、別の世界にいるんですか?」

「厳密に言うと〜、別の世界線!俺らは君を元の世界線に戻すんだよ〜。」

彼はまだ回りながら喋った。


「セイガさん、もうやめて。見てると…目が回ります。」

アマギリさんがセイガさんの腕をつかんで止める。


そこでナナの事が頭をよぎる。

今頃まだ泣いているのだろうか。早く、俺が行かなければ。

「あの、わかりました。俺、直ぐに戻る必要があります。直ぐにお願いします!」


彼らにそう告げると、アマギリさんが説明を始めた。

説明によると、今日の経験を持った俺は厳密に言うと今までいた世界線には帰られないそうだ。

99.999%似てるけど、0.0001%違う世界線だと言う。

少々、交友関係に差が出るらしいが正直そんな事はどうでも良かった。


とにかく、直ぐにナナに会いにいかなければ。


セイガさんは焦っている俺の様子を静止するかの様に、

俺の胸元に人差し指を突きつけて言う。


「で、ちょっと変化があるけど、それはもうどうしようもない事なんだ。君は受け入れるしかない。

そこから逃げる事も出来ない。それをちゃんと君が理解した上で、戻す。

その変化が良い事でも、悪い事でも、君は受け入れる。いいね。」


真剣な眼差しに、こちらもゆっくりと首を縦に振り「わかりました。受け入れます。」と言った。


セイガさんが何か機械を操作して、アマギリさんと共にこちらを見た。

2人共、何も言わなかったけど、なんとなく悲しそうな目をしていた様に見えた。




ハッと気づくと、俺は家の前に立っていた。

先ほどの様に体は軽くなく、ずっしりと重みを感じる。

試しに一度ジャンプしてみたが足は着地の際に地面についた。


ナナに謝ろうと、俺は直ぐに駆け出した。

家に着くと、鍵は閉まっていた。先ほど俺が出た時は鍵もかけ忘れていたので、ナナが鍵を閉めたのだろう。

玄関の鍵を焦りながらも開ける。


「ナナ!ごめん。俺が悪かった!」

そう言いながら部屋中を見ても、ナナの姿はない。

電気は付けっぱなしだし、ナナのカバンはソファの脇に置いてあるので、出かけている様子はない。


不思議に思い机の上を見ると、先ほど彼女が見せたパソコンのチャット欄が表示されていた。

閉じようと思い操作しながら、ふとチャット欄を見ると、自分のアカウントで新たな書き込みを見つけた。


【ナナは死にました。】


読んだ瞬時に、強烈な寒気が襲う。

自分はこんな文章、書いていない。恐らく彼女によって書き込まれた物だろう。

たまらず、ノートパソコンをバタン!と乱暴に閉じた。

そして、机の奥にあるクローゼットに、何かが挟まっているのが見えた。


ああ、近づくな。ダメだ。


頭の中で警告が鳴り響くが、俺は一歩一歩近づいていく。


その挟まっていた「何か」。

俺には見覚えがあるのだ。


今日、彼女が着ていた服はどんな服だった?

そう、一緒に買ったお揃いのパジャマ。

俺のはTシャツとズボンになってて、彼女の方は長いワンピースの様になっている、灰色の服。

挟まっているのは、恐らく、多分。

彼女の服だ。


クローゼットの中を開けると、ナナは首を吊っていた。

タオルで輪っかを作り、彼女の体は力なく吊られていた。

焦る気持ちと共に、妙に冷静になって首筋の脈を測る。

冷たい。脈は無い。

もう、死んでる。

ナナが、死んでる。


そのまま俺は、膝から崩れ落ちた。

暫く、そのまま動く事が出来なかった。


そう言えば出ていった際に、明日話そう、必ず帰るとメールした筈だ。

彼女はそれが信じられずに、逝ってしまったのだろうか。


何となく読み返したくなりメールの履歴を確認したが、そこには彼女に送った筈のメールはなかった。


先ほどの男性が限りなく近い、でも少し違う世界だと言っていた。


彼女が自死を選んだこの部屋で、俺は立ち尽くす。


俺は、必ず帰ると言った筈だ。

でも【この世界】では、

そのたった一言が、たった一通のメールが、ナナに届いていなかったんだ。


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