東京狐狼

王子

東京狐狼

 東京なら違うと思っていた。居場所があると信じていた。自分の存在に名前が付くと昂っていた。でも全くそうじゃなかった。あらゆる存在は名を剥ぎ取られ、作り笑いと無表情の仮面を押し付けられ、不自由なのに自由を装う場所だった。どこより人がいるはずなのに、どこより独りが身に沁みた。

 地元の空気は嫌いじゃなかった。嫌だったのはヒトだった。獣人の国から来た狼は小さい頃から異分子だった。二つの耳と両手両足、ヒトたらしめる二足歩行、俺が足並み揃えていくつもりでも、手を繋いで歩けはしなかった。

 言語と宗教と文化が共通なら同じ民族だと聞いたことがある。言葉が芽生える前から日本で暮らし、ご立派な信心など無くても初詣には出向き、食べるもの、学び舎、好きな曲、泣いた映画、どんな共通点があろうとも、獣人さんはヒトと似ているねと言われ続けた。結局は見た目だ、遺伝子だ。自分では変えられないものだった。灰褐色の毛に覆われた体が、突き出た鼻が、時折あらわになる牙が、俺を外族人よそものにしていた。いじめられたわけじゃなかった。差別されたわけじゃなかった。むしろみんな親切で優しかった。それが他所よその国の者を丁重に扱う国民性だと気付いたのは義務教育を終えた頃だった。

 進路指導の先生が善意でくれた「獣人歓迎」の求人を断った。スカスカの二両編成に乗り、二回乗り換え、二時間揺られ、吐き出されるように駅を出た。大通り沿いで、敷いた段ボールに寝そべっている人がいた。ひどく細い体の初老の猫獣人だった。片膝を立て、枝みたいな腕で顔を覆い、死んだように動かなかった。一寸先はこれだと思った。

 老婆が家主のボロ部屋は食って寝るだけの場所だった。新品のチャリで初めてのバイト、二倍の時間を徒歩で帰った。この街じゃチェーンロックの無いチャリは自由に使っていいらしい。二日目で前借りを求めて泣きつく新人に、店長は渋るどころか慰めをくれた。律儀に封筒で包まれた二万は、若者を思う人情というより獣人への同情かもしれなかった。

 金が貯まる、高い部屋に移る、稼げる仕事に変える、東京の生活は螺旋階段だ。従順に仕事をこなしていれば生活水準は上がっていく。二十代の最後に店を任された。チャリはいつだか捨ててしまった。今や電車賃など雑費だった。酒を酌み交わす友人がいて、美味い飯屋はたくさんあって、あらゆる娯楽が転がっていて、愛を語らう相手はいなかったが、悪くなかった。うまくいっていた、はずだった。

 激務の日々が繰り返されても疲れ果てずに走っていられた。それより気がかりだったのは、ふと込み上げる何かだった。それは不意に訪れて俺に思い出させようとした。ずっと欠けたままでいる場所を、奥底で渇望しているものを、東京にやって来たわけを。探しているふりでなだめようとした。そんな小手先きくわけがなかった。呑み込もうとして酒を煽った。冷たい手が臓腑を撫でる感覚、もどした中にも答えは無かった。まともに見ろと主張してくる。

 薄々勘付いてはいた。これは俺自身の問題で、俺だけじゃどうにもならない話だった。いつまで経っても獣人は、ヒトの群れには馴染めない。俺と周囲の繋がりよりも、ヒトとヒトの繋がりが強固に見える。隣の芝生は青いって、正論垂れる奴がいるかもしれない。ヒトにとってはそうかもしれない。でも俺にとってはそうじゃない。理性で片が付くことじゃない。これは遺伝子の叫びだ。狼の血が騒いでいる。群れを成せ、お前ははぐれ狼だ、群れなきゃいつか破滅するぞ、と。

 俺の住処は東京ここで、認めてくれる人がいて、与えられた役職があって、居場所は確かなはずなのに、それを疑う俺がいる。外族人よそもの余所者よそものとして人道的に扱う、それだけで優しさだ多様性の尊重だと呼ぶ、そんなの欺瞞だと言いたくなった。

 その一方でこうも思う。俺が感じてきた境界線は、実は俺が引いていたんじゃないかって。みんな受け入れてくれた。手を差し出してくれた。その手を取るため腕を伸ばす、指が触れる前に考える。この手は社交辞令の形か? ヒトとしてすべきことってポーズじゃないのか? その手と俺のを見比べる。笑えるくらい違う造形。隣人にも友人にも恋人にもなれる俺の手は、でもヒトだけにはなれはしない。だから手を引っ込めたんじゃないか。ふてくされた爪で足元に線を引いたんじゃないかって。

 東京の現実も見えていた。ヒトもヒトで群れてはいない。東京は余所者の寄せ集めだ。同じ民族でありながら、こんなに過密でありながら、お互いに外族人よそものの距離をとっている。俺もその一人ってだけなのかもしれない。

 どれだけ吠えても変わりはしない。内なる狼の悲痛な叫びに耳を塞いでいるしかない。その声で狂いそうになっても仮面で蓋をするしかない。いつしか慣れてくるだろう。いや、もう慣れてしまったのかもしれない。いつか同族ができたら尋ねてみたい。ヒトの遺伝子も何か叫ぶのかって。

 それまで俺はこの東京で、狐狼を受け入れ生きていく。

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東京狐狼 王子 @affe

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