ホタルはまだ飛んでいる
馬村 ありん
ホタルはまだ飛んでいる
月の光がまぶしい夜空に、無数の光の玉が飛び交っていた。黄と緑の中間の色のような光が、川原の石を流水を草むらを照らし出した。隆二は、破れかけたワイシャツの袖で口元の血を拭った。
「蛍だ。まだいたのか」
自分の住む青前町の川からは、とっくの昔に全滅したものだと思っていた。護岸工事がなされ、日本古来の優美な景色が台無しになってしまってから久しい。今年三十になる隆二の生まれた頃にはもう都市化が進んでいたが、かつては蛍が飛び交うのを見かけたという話を、父母から聞いていた。
両腕に力を込めて、隆二は立ち上がる。蹴られたり殴られたりした全身が悲鳴を上げた。それでも体を動かして、河原の土手に腰を落ち着けた。右の頬がヒリヒリと痛んだ。口の中に
青前川の上流。街の明かりははるか南西にある。都会の喧騒から離れた野生動物たちの領地。いつクマに襲われてもおかしくはないところだ。けれども、隆二はしばらく離れたくはない気分だった。
奇跡じゃないか。この光のカーニバル。ディズニーランドでもUSJでもお目にかかれない景色だ。
まともな商売ではないのかもしれない。隆二は思った。自分が売ってる布団は本物だ。上等な羽毛を使っている。寝心地だっていい。それでも販売価格が相場の倍というのはアコギな商売と言わざるを得ない。
しかし、隆二を指導した先輩の生田に言わせれば、老人や金持ちは金が余ってるんだから少しぐらい分前をぶんどってもいいんだということだった。隆二もその信念に従い、何十という布団を売りつけた。
この前四十代くらいの美人な奥様と販売契約をした。すると、先方にはカビ臭い布団が届いた。倉庫での保存状態が悪かったのだ。半グレみたいな会社だ。普通なら泣き寝入りだろうが、奥さんの伴侶が筋モノとなればそうはいかない。彼らが、布団を売りつけた「不定の輩」=「隆二」を見つけるのにそう時間はかからず、あれよあれよという間に、ここまで拉致してきたというわけだ。
身体がタバコを欲していた。ワイシャツの胸ポケットを探るが、紙パックの中は空っぽだった。紙パックをクシャクシャにした後、川に放り投げようとしてやっぱりやめた。
携帯電話が鳴った。
もしかして会社からだろうか。帰りの遅い隆二の様子を確認しようと掛けてよこしたのだろうか。
「帝国海洋エネルギーの三郷と申しますが、乾様のお電話番号になりますでしょうか」
誰だ?
ボコボコに殴られたせいか、隆二の頭の回転は遅かった。すぐに思い当たった。三郷千鳥。なにかのフォーラムで出会ったNPOで働いている女性だ。事業の内容はさておき、かわいいので声かけして、友人同士になった。
「メールでもお送りしましたが、次回のセミナーの開催の通知をと思いまして、お電話をかけさせていただきました」
「堅苦しいから敬語なんてやめようよ。存分にお互いを知り合った仲じゃない?」
沈黙。その後かすかなため息。
「ねえ、ひょっとして恋人気取りでも?」
「なあ、今から会えないか。素敵なものを見せたいんだ。この前のドローンショーより素敵だよ」
「いま自宅。旦那が戻ってくるからダメ。素敵なものってなに?」
「景色だよ。月明かりと蛍の群れ。絶景だ」
「どこにいるのよ」
「青前川の上流」
「こんな時間に? クマの餌になるわよ」
「やっぱりそう思う?」
隆二はジッポの火を暗闇に向けた。草花や低木がうっすらと浮かび上がった。
「ねえ環境保全の活動には詳しい? ここの自然を残しておきたいと思ったんだけど」
「ナショナル・トラスト運動をしたいということ? 私とは少し専門が違うかな。
「頼むよ」
「今の会社はやめるの?」
通話を終えて、痛む身体を引っ張りながら、草むらの中を歩いた。丈の高い雑草が歩行の邪魔をする。腫れてきたのか、左目の上あたりがヒリヒリと痛んだ。
目の前に光るものがふわふわと飛んできた。思わず片手を差し出すと、隆二の手のひらに降り立ったのは一匹の蛍だった。六つの足で皮膚の上に乗っかり、羽を休めているのだが、その光だけは絶やすことなく輝かせ続けている。
片手に蛍を休ませながら、もう片方の手で携帯電話を操作する。
「もしもし生田です」通話口から声が聞こえた。「ただいま留守にしております。ご用件のある方は――」
隆二は録音が開始されるのを待った。
「この詐欺師。散々悪行叩き込みやがって。地獄に堕ちろ」
携帯をオフにした時、手のひらの上から蛍が飛び立った。ここそこにいる群れの中に入り混じった。
誰かとこの素晴らしい景色を共有したかった。携帯で撮影してもよかった。けれども、携帯カメラの画像ってのはどうも事実とは違って見える。どう映しても、ショボく悲しく見える。
「またくるよ。お前らに会いに毎年な。お前たちを守ってやるから」
光の群れに背を向けて隆二は歩き出した。
ホタルはまだ飛んでいる 馬村 ありん @arinning
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