第30話 四十九日目①

「いかないでくれっ!」


 気がつけば、天井に向かって右腕を伸ばしていた。


「夢……?」


 呼吸が荒い。全身がじっとりと嫌な汗をかいている。頬が冷たくて、そっと手を触れると、自分が泣いていたことに気づいた。

 昨日、倒れ込んだまま、布団にも入らずに眠りに落ちていたのか。

 起き上がると、身体が軋む。喉が渇いていたので、冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出して、口にする。

 喉が潤うと同時に、臓器が冷えていく。その感覚が、沈んでいる今は心地いい。

 キッチンから部屋を見渡す。陽葵はいない。


「陽葵は、俺を恨んでるんだろうか……」


 あれが夢だとわかっていても、否定できない自分がいる。もっとも無意識下で恐れているから、あんな夢を見たのだが。

 テーブルに置かれたスマホが振動したので、近づいて手に取る。

 朱霞からメッセージが届いていた。


『今日の午後に』

『陽葵おねーさんを除霊してくるよ』

『おにーさんは無理して来なくていいから』


 行きたい気持ちと、行きたくない気持ちがせめぎ合う。本当に、陽葵の最後の言葉が、俺への恨み言だったら?

 陽葵と一緒なら生きていけるという微かな灯火は、一瞬で消え去り、二度と火が付くことはないだろう。


「一緒に成仏するのも、いいかもな……」


 直樹は情けない声で、歪に笑う。

 握っていたスマホが再び振動する。何か言い忘れたのだろうかと、画面を見ると、相手は柚だった。


『今日の午後、お時間もらえませんか? 何時まででも待ってるので』


 正直、誰にも会いたくなかった。それが、柚となれば尚更。


『日を改めてもらえませんか? 今日は人と会う気分じゃなくて』

『今日じゃないとダメなんです。私の最後のお願い、聞いてもらえませんか?』


 いつもの柚らしくない返事だった。それに、最後というのも気になる。


「この部屋で何もしないよりマシか……」


 ポツリと呟くと、柚に返事を送った。

 そろそろ部屋を出ようかという時間になり、トイレで用を足す。

 洗面台で手を洗いながら、ふと鏡を見ると、無精髭が生えていた。


 ――五点っ! 落第っ!


 陽葵の声が聞こえた気がした。そういえば、柚との初デートの時も、身なりが整っていなくていなくて、陽葵に注意されたんだった。


「身支度、するか……」


 直樹はカミソリを手に取ると、髭を剃り始めた。



 午後二時ごろ、新宿御苑の千駄ヶ谷門前で柚と待ち合わせた。


「南條さん、私のわがままに付き合ってくれて、ありがとうございますぅ」


 柚の表情は硬かった。前回、動物園で気まずい別れをしたのを思い出す。


「松下さん、この前は――」

「そのことなら、気にしないでください」


 柚は笑って、直樹の言葉を遮る。だが、その笑顔はどこか作り物めいた感じがした。

 二人で新宿御苑の中を歩く。日曜だが、場所によっては、人がほとんどいない場所もあった。

 無人の東屋に腰掛けた。近くに見えるカンザクラの花が咲き誇っている。


「もう、春ですね」


 柚が感慨深そうに口にする。


「そうですね」


 陽葵と出会ったのは、成人の日だったというのに。


「不動産屋って、春が一番忙しいんですよ。新しい生活が始まる方が多いから」


 それだけ言うと、柚は黙った。何かを言いたいが、口に出すことに悩んでいる。そんな空気を感じて、直樹は沈黙を貫いた。


「私、不動産屋の仕事が大好きなんです。お客さんはみんな、新しい人生を歩むために、引っ越しをする。その人の新しい人生に相応しい、新しい家を紹介するのが、とても誇らしくて。この家でよかった。そう思ってもらえるように、頑張って仕事をしていました。……どこかの誰かさんは、違う目的で家を借りましたけど」

「……すみません」

「本当に困りましたよ。思わず、彼女に志願して、デートもして、なんとか踏みとどまってもらおうと思って。だけど、その誰かさんは、私より別の人を選んだ。その時に気づいちゃったんです。私、この人に本当に恋をしてるって」


「俺は……」

「実は私、昨日仕事をクビになったんです。またドジしちゃって。だからもう、恋人でいる理由なくなっちゃいました。南條さんの恋人でいる必要が、なくなっちゃったんです。だから、陽葵さんと幸せになってください」

「陽葵は、幽霊で……。今日、成仏します……。一緒になることはできないんです」

「なら、私のことを好きになってくれますか?」


 柚がこちらを見る。その瞳は憂いを帯びていた。答えを知っている。そんな目だ。


「……すみません」

「ですよね。わかってました。私がお話ししたかったことは、これだけです。陽葵さんに会いに行ってください」

「俺には、陽葵に会う資格がないんです」


 直樹は、俯きながら口にする。


「ぼっけなすーっ!」


 頬に鋭い痛みが走る。遅れて、ジンジンと腫れるような感覚。


「今日まで、何をしてきたんですかっ? 今日まで、何をもらってきたんですかっ? 私のことを振っておいて、会う資格がないとか、寝言もいい加減にしてくださいっ! 会いに行けばいいじゃないですかっ! 好きなんだからっ!」


 好きだから、会いに行けばいい。

 なんてシンプルなんだ。だけど、この世の真実のように感じられた。

 直樹は立ち上がって、柚を見る。


「松下さん、ありがとうございます。あなたのお陰で、迷いが晴れました」



 *



 柚は直樹が走り去ったのを見送ると、項垂れた。


「仕事も、恋も失っちゃった……。私、バカだなぁ……。あー、今更、胸が痛くなってきた」


 ズビズビと鼻を啜る。

 涙がこぼれないように、空を仰ぐ。


「いつか、この恋に意味があったって思える日が来るかなぁ……。来るといいなぁ」


 自分の言葉で余計に泣けてくる。


「うえぇーんっ。好きだったっ。大好きだったよぉーっ!」


 東屋から、柚が大泣きする声が響きわたるのを、木々が静かに受け止めていた。



 *


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