第26話 四十七日目①

 直樹は、新宿駅近くの、とあるカフェの入り口が見える路地裏に隠れていた。

 もうすぐ柊木が、あのカフェにナツを連れてくる。

 ジリジリとした焦燥感に身を焦がされる。一秒が一時間にも感じられた。何度もスマホで時間を確認してしまう。


「っ!」


 思わず声が出そうになり、慌てて右手で自分の口を塞ぐ。柊木を見つけた。隣で楽しそうな笑みを浮かべているのは、間違いない。ナツだ。

 心拍数が一気に跳ね上がった。アドレナリンが過剰に分泌されているのか、呼吸が荒くなる。

 二人がカフェに入っていくのを確認すると、スマホをじっと見つめて三分待った。


 両手から汗が分泌され、湿り気を帯びる。拳を力強く握ると、直樹はカフェに向かって歩き出した。

 ドアを開けると、店員がこちらへ向かってくるので、片手を挙げて来なくて大丈夫とサインを送る。

 柊木にはなるべく、入り口から遠い席に座って欲しいと頼んであった。直樹は、店の奥の方をぐるりと見渡し、柊木たちを見つけると、そちらに向かってゆっくりと近づいていった。


「久しぶりだね、ナツさん」


 なるべく平静を装って声をかける。

 対して、ナツの双眸は大きく見開き、唇がわなわなと震えていた。


「どう、して……」

「柊木さん、ありがとうございました」

「交換条件ですから、では」


 柊木は白狐の面を被ると、立ち上がった。

 直樹は柊木が先ほどまで座っていた席につく。

 ナツの眉が八の字になり、こちらを睨みつける。


「騙したわね」

「それはこっちのセリフだ」

「何言って……あれは、あんたが勝手にっ」

「そうだ。俺が勝手に心配して、あんたに金を渡した」

「だったら」

「だから、お願いします。お金を返してください」


 直樹は、ナツに向かって頭を下げた。


「……は?」

「俺は、あんたを詐欺で訴える証拠を持ってない。こうやって、お願いすることしかできない」

「あんた、馬鹿じゃないのっ?」


 嘲るような罵倒。

 そんなの俺が一番わかってる。騙した女に頭を下げることしかできない自分が、どんなに惨めで、愚かなのか。だけど、これしかないんだ。陽葵に思い出を作るためには。


「わかってる。それでも、俺にはこれしかできない。だから、お金を返してくださいっ。どうしても叶えたいことがあるんだっ。そのためには金が必要でっ」

「じゃあ、あたしにも叶えたいことがあって、お金が必要だったの。わかってくれる?」


 その言葉に、誠意という二文字は一欠片も感じられなかった。

 安い挑発だ。だけど、陽葵への想いを冒涜されたようで、我慢ならなかった。

 直樹が勢いよく立ち上がったため、椅子がガタンッと音を立てる。


「あんたのせいで、俺は自殺しようとしたっ!」

「はぁ? いきなり何言って――」

「あんたの言葉が、俺の人生を全否定したんだっ! だから死のうとしたっ! 生きる意味を見失ったからだっ! だけどっ! あいつに出会ってっ! そばで笑ってくれてっ! あいつが馬鹿馬鹿しいことを言うたびに俺はっ! 生きるのも悪くないって思えてっ! なのにっ! あいつはどっか遠くへ行っちまうっ! その前にどうしてもっ! 連れ出してやりたいんだよ……」


 直樹の言葉で、店内に静寂が広がる。

 客も店員も動きを止める。

 まるで時が止まったかと錯覚する。

 コツ、コツ、コツ。

 そんな中、一人分の靴音が静かに、だが確かに響いた。


「おにーさん。それは、陽葵おねーさんの願い?」


 背後から知った声が聞こえてくる。


「違うっ! 俺の願いだっ! 俺が、陽葵のためにしてやりたいんだっ! 陽葵の笑顔が見たいからっ!」


 背中をバシッと叩かれる。小さな手のひらから、じんわりと温かさが広がって、全身を包み込む。


「んじゃ、バイトくんのために、ちょっとだけ手伝ってあげましょうか」


 朱霞は、ナツに近づくとじっと見つめた。


「な、何よ、あんた……」

「佐々木仁志、三十二歳、九十万。藤原辰己、三十五歳、百二十万。片桐大吾、四十一歳、二百六十万。滝沢慎也、二十九歳、七十万。益子淳二、三十三歳、六十万」


 朱霞が口を開くたび、ナツの顔が青くなっていく。呼吸ができないのか、何度も口を開く。


「生き霊って知ってる? あんたの後ろに、うじゃうじゃ憑いてるよ、おばさん」


 朱霞が手のひらをナツの額にサッとかざすと、ナツは極寒の吹雪の中にいるかのようにガクガクと震え始める。

 そして、口元を片手で押さえたかと思うと、そのまま嘔吐した。


「ヴォエッ!」


 それはただの吐瀉物ではなかった。

 廃トンネルで見たアメーバみたいな霊体が、うねうねと蠢いていた。


「なんだこれ……」


 思わず呟いた直樹に、朱霞があっけらかんとした口調で答える。


「このおばさんを呪ってる生き霊が合体したものだよ。こんなに強い念と化してるのに、平気なんだから、大した悪党だよ。ウチがちょっぴりアンテナを敏感にしてあげたら、このザマだけどね」


 朱霞は右手で、前髪をかき上げた。


「た、助けて……。助けて、ください……」


 ナツは震えながら、吐瀉物で汚れた口元を拭うこともせずに朱霞にすがる。


「おばさん次第だよ?」


 ナツは直樹を見る。


「返します。返しますから。ごめんなさい。ごめんなさい」

「じゃあ、とりあえず洗面台で口ゆすいできて」


 朱霞は作り笑いを浮かべながら、指示した。


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