第17話 三十六日目①

 翌朝、直樹は、あくびをしながら布団から起き上がる。

 キョロキョロと視線を動かし、陽葵の姿を探す。

 いつからか、そんな癖がついていた。

 だが陽葵の姿が見えない。


「陽葵?」


 直樹は、立ち上がると、台所を見る。しかし、陽葵はいない。ユニットバスの扉を開くと、バスタブの中に座り込んでる陽葵を見つけた。


「こんなとこで何やってんだ?」


 陽葵は直樹の方を向くと、一瞬、虚脱したような表情を見せたが、すぐに笑顔になった。


「おっはよーっ。直樹を驚かそうと思って、隠れてたのにーっ」


 そう言いながら、バスタブから浮き上がり、直樹に顔を近づける。


「顔が近いって」

「ごめんごめん。直樹もお年頃だもんね」

「それ十代に言うセリフだろ」

「それよりお腹空いたー。早く朝ごはん作ってよ」

「食欲ないくせによく言う」


 直樹は呆れながらも、思わず笑みが溢れる。

 朝食を食べ終えると、直樹はコートを羽織った。


「じゃ、行ってくる」


 何と言えばいいかわからず、いつも通りの言葉を口にした。


「うん。気をつけてね」


 陽葵も、笑顔を浮かべながら、いつも通りの言葉を口にしてくれた。

 直樹がドアを閉めるまで、陽葵は手を振り続けてくれた。直樹は、鍵をかけると、八王子へと向かった。



 今は使われていないトンネルの入り口で、朱霞たちと合流した。朱霞が珍しく手ぶらではなく、袋に包まれた長物を持っている。


「朱霞さん、それって?」

「今日はパンチだけだとめんどくさいからね。秘密兵器を持ってきたんだ」


 そう言って、袋から取り出したのは、九十センチ近くはあろうかという日本刀だった。


「それって真剣?」

「悪霊を斬るための刀だから、本当は研いである必要ないんだけどね。これ作ってくれた人が日本刀の鬼マニアなんだよ」

「法律的にヤバいんじゃ」

「だから秘密兵器だって言ったっしょ? あと、今日は霊符使っちゃダメね。相当強力な怨念だから、耐性下げたらぶっ倒れちゃうと思う」

「何となく嫌な気配がしてるけど、ここの雰囲気のせいじゃないのか」


 直樹は周囲を見渡す。長い間使われていないだけあって、草木も多く、トンネルの老朽化が激しく、いかにもといった場所だった。


「肝試しで有名なスポットらしいですよ。全く、霊感のない人は恐怖を知らない」


 柊木が口を開いた。


「柊木さん。ここに陽葵の分裂体がいるって、どうやって分かったんですか?」

「十年前に、都内近郊で死んだ若い女性を片っ端から調べました。特に、恨みを持って死んでそうな事件を。そして見つけました。恋愛のもつれで恋人に殺され、このトンネルに遺棄された女性を。名前は白石陽葵」

「事件の概要を読んだけど、婚約してて結婚間近だったらしいよ。陽葵おねーさんは、そんな幸せな時に恋人に殺されたことがすごくショックで、死んだ時に魂が分裂したんじゃないかっていうのが、ウチの見立て」

「じゃあ、この中にいるのは」

「そ。恋人に殺されたことを激しく恨んで、しかもとっくに自我が崩壊しているネガティブな感情の塊」


 陽葵は、魂が分裂してしまうくらいショックを受けていた。そして、魂の片方は今も無念を晴らせないでいる。


「早く、成仏させてあげよう」

「おにーさんに言われなくたって、そのつもりだって。じゃ、行くよ」


 三人でトンネルの中を進んでいく。直樹と柊木の持っている懐中電灯だけが、道標だ。

 直樹は、一歩進むごとに、気分が沈み、過去の嫌な出来事が次々とフラッシュバックしていた。

 中学の修学旅行。


 高校の時に、いじめを止めようとして、自分がシカトされたこと。

 大学で。会社で。

 別に自分の人生を不幸だと思ったことはない。それでも今は、なぜ自分が今日まで生きているのかわからなくなっていた。早く死にたい。いっそここで。

 朱霞が手に持っている日本刀に目を遣る。あれなら。


「おにーさん、ポジティブを忘れちゃダメッ!」


 朱霞の喝で、脳に電流が走る。


「……すまない。もってかれるとこだった」

「キツイなら戻ってもいいよ」

「いや、俺も陽葵を成仏させたいんだ。陽葵のためにも。さっきの話を聞いて、そう思った」

「そっか。じゃあ、尚更気合い入れないとね」


 後ろから朱霞が、直樹の背中を強めに叩く。

 直樹は、陽葵とドミノ倒しをした時のことを思い返す。千枚以上使ったハート型で、あとちょっとで完成という時に、陽葵が最初の一枚を倒して台無しにされた。腹が立つことのはずなのに、なぜか心が軽くなった。

 それから進むこと数分、朱霞が声を発した。


「二人はそれ以上、前に出ちゃダメ」


 直樹と柊木の足が同時に止まる。いや、止まらざるを得なかった。

 足を前に出すことを、本能が拒否する。二月だというのに、全身から嫌な汗が噴き出す。

 目の前にいるのは、泥のように濁った何かだった。

 人の形をしておらず、三メートルはあろうかという何か。アメーバが一番似ているかもしれないと直樹は思った。


 グネグネと動くその何かから、刺すような恨みの念が襲ってくる。

 ――え? どうして?

 女性の震える声が脳内に響いた。鳩尾の辺りに、包丁で刺されたような熱い痛みを感じる。


「ぐっ」


 咄嗟に鳩尾の状態を確かめようとして、懐中電灯が右手から落ちる。懐中電灯は前へと転がって、直樹の方を照らした。


「辛いよね。苦しいよね。大丈夫だよ。今、楽にしてあげるから」


 慈しみに溢れた朱霞の声が、波紋のように広がっていく。

 朱霞は、直樹たちの前に立つと、左手で刀の鞘を左腰に当てて、右手で柄を握り、構えを取る。

 朱霞の表情は逆光で見えないが、底知れない霊力の高まりを感じる。


「真に人を想い、邪念のみを断つ。すべてを救え、陽祓いの太刀」


 朱霞は言葉を発すると同時に、抜刀する。刀身は黄金色のオーラを帯びていた。


「はっ!」


 流麗な太刀筋だった。剣術に詳しくない直樹でも見惚れるくらい、その袈裟斬りは美しかった。

 斬られた何かは霧散していく。

 ――ありがとう。

 女性の声が聞こえた気がした。

 朱霞は床に落とした鞘を拾い上げると、納刀する。


「朱霞。お見事でした」

「んー……」


 だが、朱霞の反応はいつもとは違った。


「何か気になるのか?」

「あの怨念を斬った時に感じた波長が、陽葵おねーさんとは違う感じがしたんだよねぇ……」

「怨念だったんだし、そんなもんじゃないのか?」

「本当に同一人物かなぁ」

「これから南條さんの家に行きましょう」

「そうだね。おにーさんもそれでいい?」

「ああ。構わない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る