第16話 三十五日目

 だけど、そんな日々も長くは続かない。


「陽葵おねーさんの片割れっぽい怨念を、柊木が見つけたよ。明日、除霊しに行こう」


 朱霞が口にする。俺たちの日常が終わる宣告だった。


「怨念の方を除霊したら、陽葵はどうなる?」

「あくまで予想だけど、ほぼ同時に成仏すると思う」

「そうか」

「あー、おにーさんともお別れかー。あたし、結構気に入ってたんだけどなぁー」

「異性としてか?」


 待ち望んでいた日が来たはずなのに、何故か心は浮かなくて、思ってもない軽口をたたいた。


「女子高生舐めんな。人間としてだよ」


 朱霞が小さく笑いながら、直樹の肩をグーで軽く殴った。



 買い物を済ませ、家へと帰る。


「おかえりー。今日はどんな悪霊だった?」

「ただいま。病死する直前に、托卵されたことを知らされた旦那だった」

「うわー。死んでも死にきれないやつっ! 今日の晩御飯は?」


 いつの間にか、日常になった会話。


「すき焼き。陽葵、牛肉好きだろ?」


 陽葵の瞳がダイヤモンドのようにキラキラと輝く。


「牛肉の一番おいしい食べ方じゃんっ!」

「しかも、松坂牛だぞ」

「えぇっ? 今日って結婚記念日だっけ?」

「してねぇよ」

「じゃあ、あたしの誕生日?」

「知らねぇよ」

「からのー?」


 陽葵が何かを期待する目で、こちらを見ている。


「何もねぇよっ!」

「あははっ。ねぇ、早く食べよ食べよっ!」

「準備するから待てって」


 台所に立ち、食材を並べる。

 隣に立つ陽葵がネギを指さす。


「このネギふっとっ!」

「下仁田ネギって言うらしい。熱を通すと甘くて美味しいんだと」


 陽葵に解説しながら、ネギを等間隔に切る。いつの間にか、包丁の扱いにも慣れた。


「甘いおネギとか、絶対にうまいやつっ。楽しみすぎるっ」


 下ごしらえを終えた具材を大皿に盛りつけると、テーブルへと持っていく。


「すき焼きって関東風と南国風ってあるじゃん? どっちで食べるの?」

「なんだよ南国風って。めっちゃフルーティっぽそうじゃねぇか。関西風な」

「なんで、少し前まで料理できなかった直樹のほうが詳しいのっ? 納得いかないんだけどっ」

「調べたんだよ。うまいすき焼きの食べ方」


 直樹は、ガスコンロに鍋をセットすると、点火させて、松坂牛を焼き始めた。

 じゅーっという肉が焼ける音と、香ばしい匂いが漂う。


「ねぇねぇ。どんな匂い?」

「嗅いだことのない匂いだな」

「伝わんないよっ! 一口だけでいいから、味付けずに食べさせてよっ!」


 陽葵が、足をバタバタさせながら主張する。


「しょうがないな」


 直樹は一切れだけ取り出すと、陽葵の皿に置いて、箸で刺した。


「やっば。なにこれ。口の中で、脂がさらって溶けてく。ヤバすぎてヤバい」

「なんだよそれ」


 直樹は、思わず苦笑した。

 肉が焼けてきたので、砂糖と醤油で味をつけていく。甘い香りが肉の香ばしい匂いと混ざり合っていく。


「まっちゃん、今、美味しく食べてあげるからねぇ」

「松坂牛のこと、まっちゃん言うな」


 自分と陽葵の皿に生卵を入れて、箸で割る。味がしっかりと付いた肉を皿に入れた。

 陽葵は待ち切れないのか、自分で箸を肉に刺した。


「味が付くともっと美味しーっ! 生卵とまっちゃんが口の中でユニゾン奏でてるーっ」


 直樹は、肉以外の具材を鍋に入れた後、松坂牛を口にした。陽葵の言う通り、濃い目に味付けされた肉が生卵でマイルドになり、ちょうどいい。脂もサラサラとしていて、少し噛むだけで口の中から消えた。


「美味いな」

「ねっ!」


 陽葵が弾けるような笑顔を浮かべる。その笑顔を見れて、心が温かくなる気持ちと、心が冷えていく気持ちが同時に押し寄せる。

 直樹は、陽葵の皿に全ての具材をよそり、一つ一つに箸を刺した。


「はーっ。堪能した。余は満足じゃ。貴公には褒美を与えねばならんな」

「別に、そんなもの――」

「あたしが成仏する、とかどう?」

「っ!」


 陽葵は穏やかな笑みを浮かべている。


「気づいて……」

「だって、直樹気合い入りすぎなんだもん。まっちゃんだけでも凄いのに、調理法までこだわってさ」


 陽葵はクスクスと笑う。


「もう一人の陽葵を、柊木さんが見つけたらしい。明日、除霊しに行くことになった」

「もう一人のあたしを除霊したら、あたしも成仏するの?」

「多分な」


 陽葵は天井を仰ぐ。


「陽葵。やり残したことはないか?」


 陽葵はこちらを見ると、少しだけ寂しそうに笑った。


「……。ないよ。直樹には、もー、十分すぎるほど叶えてもらったよ」


 その言葉に、なぜだか胸が苦しくなる。


「そうか」

「一つだけ聞かせて。直樹はあたしと過ごした時間、楽しかった?」


 直樹は逡巡する。死ぬために、陽葵のやりたいことを叶えてきた日々。ヴァーチャル・トリップをしたこともあった。二人で世界中を旅した。料理は最初は全然うまく出来なくて、陽葵から文句を言われた。陽葵が選ぶホラー映画は、ただ怖いだけじゃなくて、見識が広がった。


「ああ。楽しかったよ。最後に、陽葵と出会えて良かった」

「あたしも、最後に直樹と出会えて良かった」



 *



 深夜二時、陽葵は空中に浮かんだ状態で、三角座りをしていた。

 頭を膝にくっつけながら、その視線は直樹の寝顔に向いている。


「本当は、一つだけやり残したことがあるんだよ? 聞きたい?」


 小さな声で呟く。決して直樹を起こしてしまわないように。


「それはね。直樹に生きたいって思ってもらうこと。直樹は、あたしのやりたいことを沢山叶えてくれたけど、本当は全部思いつきだったんだ。あたしは、直樹と楽しく過ごせたらそれだけで十分だった。それだけで、胸がぎゅーってなったの」


 陽葵の右目から、一筋の涙が流れ落ちる。


「……そっか。あたし、直樹に恋をしてたんだ。直樹のことが、好きだったんだ」


 陽葵は、直樹に近づくと、直樹の寝顔をじっと見つめる。


「気づきたく、なかったなぁ。気づかなければ、簡単に成仏できたのに……」


 左目からも涙が溢れる、陽葵は漏れそうになる嗚咽を必死に堪えた。


「苦しいよ……。嫌だよ……。なんであたし、死んでるんだろ……。生きてたら、柚ちゃんみたいに、彼女になることもできたかもしれないのに。直樹と一緒に生きることができるのに……」


 陽葵は眠る必要のない体を、初めて嫌だと思った。



 *

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