第14話 八日目

 翌日、直樹は、朱霞たちと茨城県の水戸市に来ていた。柊木がレンタカーを運転し、依頼主の元へと向かう。


「朱霞さんって、どこまで出張するの?」

「基本的に国内ならどこにでも行くよ。まぁ、ウチが直接除霊しなきゃいけないケースは、しょっちゅうある訳じゃないけどね」

「つまり、これから行くのは」


 朱霞はニヤリと笑う。


「ちょーヤバい悪霊がいるってこと」


 県道をしばらく走り、目的地へと到着した。この前の亀戸の高級マンションと違い、ボロボロのアパートだった。陰気な雰囲気があり、近づきたくないと本能が訴えかける。


「おにーさんには、これから霊力を上げるための修行をしてもらうから」


 そう言って、朱霞は霊符を直樹の額に貼る。

 瞬間、視界が少し黒く染まり、気分が落ち込んだ。


「これは?」

「この前貼った霊符より、霊への耐性が大幅に下がるやつ。この前の霊符は視えるところまで耐性を下げるけど、今貼ってるやつは悪霊の感情にも鋭敏に感応する。霊力を上げるには、悪霊への耐性をつけるのが一番手っ取り早いから」

「ちょっと待ってくれ。耐性をつけろって言われても、俺はあの時ですら耐えられなかったんだぞ?」

「悪霊にはポジティブをぶつけるって教えたでしょ? 耐える時にもポジティブが大事なの。おにーさんは、心の中でポジティブな気持ちを強く持って。そしたら耐えられるから」


 俺は生きる意味すら見失ってるっていうのに。


「ポジティブって言ったって。死のうとしてる人間に無茶言ってくれる。ちなみに、柊さんはどうやって――」

「澪ちゃんへの愛ですよ、愛」

「はい、この話は終わりーっ! 行くよーっ!」


 朱霞がチャイムを押したが反応がなかったので、三人で依頼人の部屋へと入る。直樹は部屋の惨状を見て絶句した。

 部屋の中で竜巻が起きたかのように物が散らばり、酒瓶が何本も畳の上に転がっている。窓ガラスにはヒビが入っていた。


 三十代の母親らしき女性が、部屋の片隅で両脇に小学生くらいの男の子と幼稚園生くらいの女の子を抱えている。

 三人とも、ひどく怯えた顔をしていた。

 そして部屋の中心で、ランニングシャツを着た男の霊が胡座をかいて座っていた。

 男と目が合った瞬間、直樹の心に暗い澱のような感情が傾れ込んでくる。


「オマエタチハダレダ」


 脳内に男の声が響く。


「朱霞さん。この声って」


 直樹の疑問に、朱霞が不敵に笑う。


「おにーさん。あいつから注意を逸らさないほうがいいよ」


 朱霞は、男を無視して部屋を横切ると、しゃがみ込んで女性に目線を合わせた。

 直樹も朱霞に続く。部屋の中を一歩進むごとに、暗黒の沼へと沈んでいくような気持ちになった。


「西岡さんで合ってます? 除霊に来たよん」

「ひっ。間に合ってますっ!」


 朱霞は振り返って柊木を見る。


「柊木。間に合ってるってどういうこと?」


 柊木は朱霞の隣に座り込むと、西岡に話しかける。


「もしかして、私たちが来る前に、別の方に除霊を頼んだのですか?」


 西岡はコクコクと頷く。


「あちゃー」


 朱霞は、右手を額に当てると天を仰ぐ。


「いくら、支払ったんです?」


 柊木の問いに、西岡は息も絶え絶えに答える。


「ご、五百万円……。一昨日から急に家の中がおかしくなって、朱霞さんを待ってられなくてっ!」

「んで、金だけ毟り取られたと」


 朱霞の言葉に、女性の肩がびくりと跳ねる。


「おかーさん、そいつの名刺かなんかある?」


 西岡は、震える手でグシャグシャに握りつぶされた紙を差し出す。柊木がそれを受け取った。


「誰だかわかる?」

「知らない名前ですね。十中八九、紙屋でしょう」


 朱霞は舌打ちをする。


「おかーさんが、今置かれてる状況の辛さはわかってるつもりだよ。だから、ウチを信じてなんて言わない。ただ……、そこにいるだけでいい」


 朱霞は立ち上がると、西岡親子に背を向ける。


「おにーさん。おかーさんたちの手を握ってあげて。思いっきりポジティブなことを心に思い浮かべてっ!」


 直樹は言われた通り、西岡親子の手を握る。


「死んでからもDVとか、クソ旦那すぎっしょっ。きつーい、お仕置きが必要だね」

「オレガ、ヤシナッテヤッタンダ。コイツラハ、オレノモノダ」


 男が口を開くたび、憎悪のような感情が直樹に襲いかかる。

 昨日食った松葉ガニ美味かったっ!

 一瞬、心が軽くなるものの、すぐに魂が深く沈む。


「きっしょ。おかーさん、最低なやつと結婚しちゃったねー」


 すみだ水族館、綺麗だったな。


「オマエミタイナガキニ、ナニガワカルッ!」


 幻想的な水族館の光景が黒く塗りつぶされる。

 ああ、クソ。今の俺にポジティブな気持ちなんて。

――澪ちゃんへの愛ですよ。

 脳裏に、白い下着姿の陽葵が思い浮かぶ。すると、心が温かくなった。

 西岡親子を見ると、震えが止まっていた。


「おにーさん、やるー。じゃ、バイバーイッ!」


 朱霞が男に向かってグーパンすると、一瞬で霧散する。


「はぁっ、はぁっ」


 まるでトライアスロンをやりきった気分だ。心の筋肉が疲労している。

 ポジティブでいるってこんなに大変なのか。


「おてて、痛いよぉ」


 直樹が手を握ってた少女の訴えで、自分が力一杯握っていたことに気づいた。


「ご、ごめん」


 慌てて手を離す。

 朱霞はもう一度、西岡親子の方を向いてしゃがみ込むと、にっこりと笑う。


「これで信じてもらえたかな?」


 西岡は手にひらを畳に置くと、額を畳に擦り付けた。


「ありがとうございますっ。ありがと、う、ございま、すっ」

「じゃ、ウチらは帰るんで。もし今後のことで相談したかったら、また連絡してよ」

「待ってくださいっ。お代はっ?」

「詐欺師から回収するから、おけおけ」


 そう言って、朱霞は軽やかなステップで部屋から出ていった。



 水戸駅のホームで特急を待つ間、柊木が紙屋に電話をかけたが、使われていない番号とのことだった。


「回収する手立て、本当にあるのか?」

「柊木に調べてもらうけど、どうかなー」

「どうかなって、そしたらタダ働きじゃん」

「安心してよ。おにーさんには、ちゃんとバイト代払うから」

「そういうことじゃなくてっ」

「この仕事してるとね。こういうこともよくあるの。本当に困ってる人が、悪人に搾取されてもっと困っちゃうこと。普通の人は、除霊師を名乗る人間に、本当にその力があるかどうかなんてわからない。そんな人からお金をもらうなんてこと、ウチがしたくないの」


 そう言って、朱霞は満面の笑みを浮かべる。


「朱霞さんは、強いな……」

「ところで、おにーさんはあの時、何を思い浮かべたの?」

「……言えない」


 すると朱霞は目を細めた。


「えっちいことでしょ」

「なっ」

「あははっ。やっぱり」

「……なんでわかった?」

「リビドーっていうのは、生きる上ですごく強いエネルギーだからだよ。柊木が言ってる澪ちゃんへの愛ってやつと本質は一緒」


 直樹たちの前を、特急電車の先端が走り抜ける。


「じゃ、帰ろっか」

「……ああ」


 陽葵の下着姿が、愛と本質は同じと言われても、直樹にはピンと来なかった。

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