第13話 七日目

 柚は部屋に入るなり、素っ頓狂な声を上げた。


「南條さんの部屋に、生活感がありますぅっ!」


 陽葵を見ると、腰に手を当て、ドヤ顔をして鼻を鳴らした。


「死ぬの、やめてくれたんですか?」


 柚が目を輝かせながら、聞いてくる。


「一旦は……」


 その言葉で、柚が傷つくのではないかと気になったが、柚は満面の笑みを浮かべた。


「一旦でもいいです。南條さんが生きることを少しでも選んでくれるなら、私は。そうだ。鍋って聞いて、食材買ってきたんですぅっ」


 自分は生きることを選んだわけではない。その意味をわかっていないはずもないだろうに、喜ぶ柚の姿に、罪悪感を覚える。


「見てくださいっ。松葉ガニですぅ」


 そう言って、柚は紙袋から松葉ガニを取り出す。しかし、その手足はもぞもぞと動いていた。


「まさかの生っ!」


 罪悪感は、一瞬で明後日の方向へ飛んで行った。

 陽葵が柚に近づく。


「キャーッ! 松葉ガニって、あれだよね? なんかのカニのなんかすごい奴っ!」

「何もわかってねぇっ」


 すると、柚が肩をビクッと震わせる。


「わかってなくて、す、すみません……。少しでも高級な具材をと思って。生きてるカニのほうが、鮮度があって美味しいかと思ったんですけど……」


 柚の瞳から涙が溢れそうになる。


「いや、松下さんに突っ込んだわけじゃなくて。そりゃまぁ、生きてるカニをもらってもどうしたらいいのかわからないですけど」

「やっぱり、わかってないんですね……。うぅ……」

「柚ちゃん困らせるの禁止っ! カニが逃げたらどうするの?」

「カニ優先なのかよっ」


「そうですよね。松葉ガニは出汁がすごいから、カニの味に染め上がっちゃいますよね。なんで気が付かなかったんだろう」

「いや、カニ好きですから、問題ないですよ。わー、最高に嬉しいなー」

「直樹、棒読み過ぎっ! ウケるっ!」

「南條さん、棒読みじゃないですかぁ」


 思わず棒読みになってしまったが、カニが好きなのは本当だ。だが、料理が出来ない人間に、生きてるカニを渡されてもどうしろというのか。


「松下さん、松葉ガニってどうやって、鍋にしたらいいんでしょうか?」

「ご、ごめんなさい。わ、わかりません」

「ヘイ、お尻っ! って聞けばいいじゃん」


 陽葵が尻をこちらに向け、自分で自分の尻をぺちりと叩く。


「一文字余計だ、この痴女っ!」

「どもるって、え、エッチなんですかぁ? 南條さんのフェチなんですかぁ?」


 柚が顔を真っ赤にしながら、口にする。

 直樹は、右手で顔を覆った。


「勘弁してくれ……」



 ネットで調べたところ、身を捌いて鍋に入れるだけで良いとのことだった。

 直樹は、まな板の上に置いた松葉ガニを前に、包丁を握る。

 だが。

 生きているカニを捌くということは、殺すということだ。これから死のうとしている人間が、他の生き物の命を奪う。その皮肉に胃が痛くなる。

 もちろん今日までだって、命を奪ってきた。加工済みかどうかの違いというだけだ。


 けれど、その違いが、今の直樹には酷く重くのしかかる。

 八本の手足を懸命に動かし、口からは泡を吹いている。このカニは俺と違って、生きたがってる。

 直樹が包丁を持つ手をだらりと下げた時、自分の意思とは関係なく包丁がカニの上に移動した。

 驚いて隣を見ると、自分の手と陽葵の手が重なっていた。


「生きるっていうのは、命をいただくことなんだよ。たとえ、直樹が明日死ぬとしても、今日を生きるためには命を貰わなきゃ」

「陽葵……」

「直樹が一人で背負いきれないなら、あたしが一緒に背負うから。幽霊が命を奪うなら、死のうとしてる人間が命を奪うなんて、まだマシでしょ?」


 陽葵は、微笑みを浮かべた。

 陽葵の言葉で、胃の痛みが少しマシになる。直樹は口角を上げた。


「幽霊には三大欲求はないんじゃないのかよ」

「カニは別ですぅー」

「はいはい」

「じゃ、いくよ」


 直樹と陽葵は、同じタイミングで、カニに刃を当てた。



 さっきまで生きていたカニの甲羅が、鍋の中でどんどん赤く染まっていく。

 カニから灰汁が出るので、お玉で掬う。カニの捌き方を調べるときに、緑や灰色の灰汁は、血液が凝固したものだと知った。

 この松葉ガニは、自分たちのために血を流しているのだ。


「美味しそうですぅ」


 柚が声をあげる。


「早く食べたいっ!」


 陽葵もウズウズしている。

 直樹は、鍋の具を三つのお椀によそう。


「えっ……?」


 柚が困惑した声を出した。


「南條さん。どうして三人分よそってるんですか?」


 そりゃそうなるよな。


「カニへの供養です」


 言いながら、カニの足の中に箸を突っ込んだ。


「うま味がしゅごいぃ……」

「そういうの、素敵ですぅ。松葉ガニも、きっと喜んでると思いますぅ」

「カニの味が口いっぱいに広がるよぉ……」


 柚が感動しているところ申し訳ないが、喜んでるのは陽葵だ。


「さぁ。冷めないうちに食べましょう」

「はい」


 直樹と柚は、カニの身を食べるのに夢中になり、無言で食べ続けた。

 カニの命は、直樹の胃袋を重くさせ、体を芯から温めた。


「ごちそうさまでした」


 陽葵が両手を合わせる。

 直樹もそれに倣う。手を合わせるべきだと、なんとなく思ったのだ。


「南條さん。お話がありますぅ」


 柚が真剣な表情でこちらを見つめる。


「……なんでしょう」

「南條さんが死にたいと思ってる、本当の理由を教えてください」


 直樹の眉がピクリと動く。


「前に話した通りですよ」

「それだけじゃないですよね? 昔からトラブルに巻き込まれる。そう仰ってたじゃないですか。そんな人が」

「そんな男が、マッチングアプリで騙されたくらいで、死のうとするのは軽すぎますか?」


 直樹が自虐的に笑う。


「ただ騙されただけじゃないんでしょ?」


 陽葵が口を挟む。その言葉が真実だったから、直樹は黙るほかなかった。

 直樹はため息を吐くと、口を開いた。


「中学生の時、助けたいと思った人がいたんだ。その人は人生に絶望してて、周りに助けてくれる人もいなくて。俺がその人に出会ったのは偶然だった。なんの関係もなかった。でも見て見ぬ振りなんかできなかった。けど……」


 柚が息を呑む。


「それからだ。困ってる人を放っておけなくなったのは。自分が関係のないトラブルにも首を突っ込むようになった。感謝されたかったわけじゃない。また同じことが起きたら? そう思ったら、怖くて怖くて堪らなかった」


 直樹は、自分の両手の手のひらを凝視する。その手は震えていた。


「俺にトラブルを押し付けて、逃げるやつもいた。別によかった。困ってる人がいなければそれで」

「だったら」


 柚の言葉に応える。


「ああ。彼女のことをおかしいと思う気持ちはあったよ。でも、彼女が本当に困ってる可能性が少しでもあるなら、力になりたかった」

「なら、どうして死のうと思ったの?」


 陽葵が聞いてくる。


「『大人になりなよ』それが彼女の最後の言葉だった。俺はこんなふうに生きることしか出来ない。生きなきゃならない。それなのに、全てを否定された気分だった」


 柚のすすり泣く声が聞こえる。


「俺の十年間が否定されたようだった。だから疲れたんだ。誰かを信じることにも、誰かを助けることにも」

「納得できないっ!」


 陽葵が声を荒げた。


「直樹が苦しみながら、人を助けてきたことはわかった。それは優しさなんかじゃない。直樹のエゴだと、あたしも思うよ。でもそれでも、救われてきた人がいるのは事実じゃんっ。直樹の生き方が間違ってたなんて、あたしが認めないっ!」


 陽葵の顔を見る。唇はわなわなと震え、眉尻が上がり、瞳は潤んでいた。


「なんで陽葵が認めないんだよ」


 直樹は、陽葵の感情を正面から受け止めることが出来ず、苦笑した。


「だって、あたしは直樹に救われたもんっ! 直樹はあたしのことを見つけてくれて、相手してくれて、ご飯もくれたっ! 自殺するためとはいえ、あたしの願いを叶えようとしてくれてるっ。それが、どんなに身勝手でも、優しさじゃなくても、それでもあたしの胸は、温かさでいっぱいだよ。嬉しくて嬉しくて堪らないよ……」


 陽葵の両目から、雫がこぼれ落ちる。

 この幽霊はなんて愚かなんだろう。俺が、この世に未練を持たずに死ぬために取っている行動で喜ぶなんて。愚かしいにも程がある。


「なんで直樹はそんな優しく笑ってんのさっ!」

「陽葵が、バカすぎるからだろ」


 でも、何故だろう。その涙は、とても純真で美しいと思えた。

 すると、柚がおずおずと手を挙げた。


「あの、南條さん。いったい誰と喋ってるんですか?」


 直樹は陽葵を見る。陽葵も直樹を見た。


「独り言です」

「いやいやいや、絶対におかしいですよねぇ? さっきまで普通に会話してたのに急に独り言喋るとかありますぅ? しかも『陽葵』って言ってましたよねぇ。二回も。二回もっ」

「聞かなかったことにしてもらえませんか? 松下さんのためなんです」

「彼女の前で、他の女性の名前出すなんて浮気ですぅ! 納得いく理由を説明してくださいぃ!」


 直樹はカバンから霊符を取り出すと、柚に近づいた。


「な、なんですかそのお札っ?」

「体験した方が早いです」


 そう言って、直樹は柚の額に霊符を張った。


「そこにいるのが陽葵です。見えます?」

「どうもー。地縛霊の陽葵ちゃんでーす」


 柚は陽葵を凝視すると、全身が痙攣し始める。


「あきゅー……」


 そのまま横にバタンと倒れてしまった。


「松下さんっ?」


 直樹が柚に近づくと、白目を剥いて気を失っていた。


「一月なのに、ノースリーブのワンピースなのが良くなかったかな?」

「そこじゃねぇっ!」



 三十分ほどして、柚が目を覚ました。


「私、一体……。何か怖いものを見たような」

「それって、あたしのことー?」


 陽葵が柚の眼前に顔を突き出す。


「ぴゃーっ!」

「松下さん、落ち着いてください。陽葵は怖いやつじゃないんで」

「幽霊な時点で怖いですよぉ!」

「キューン」


 陽葵は子犬のように鳴いた。


「謎の鳴き声やめろ。そんなんで」

「か、可愛い……かも」


 まさかの柚の反応に、直樹は困惑した。


「女性の感性わからん……」


 その後、直樹が陽葵のことを柚に説明した。


「南條さんは、陽葵さんを成仏させようとしてるんですかぁ?」

「そうなります」

「他の女性と一つ屋根の下。でも相手は幽霊。けど、すごく可愛い。でも幽霊。南條さんは成仏させようとしてる。セーフ? アウト?」


 柚が小声でブツブツと葛藤しているが、丸聞こえだった。


「セウトですぅ」

「いや、どっちですかっ?」

「南條さんは、陽葵さんのこと好きじゃないんですよね?」

「ええ、まぁ」

「えーっ! 好きじゃないのっ? 陽葵ちゃんショーックッ!」

「やっぱりセウトですぅ!」

「だからどっちなんですかっ!」

「冗談ですよぉ。私が南條さんの彼女になったのは、南條さんに生きてて欲しいからですぅ。南條さんが生きてくれるなら、それが私じゃなくて……」


 柚が陽葵を見ると、その瞳が大きく揺れる。柚の口元が引き攣っていた。


「柚ちゃん?」

「あははっ。初めて幽霊さんを見たからですかね。まだちょっと動揺してるみたいですぅ」


 口元は相変わらず引き攣っていたが、その表情は笑顔になっていた。

 柚は立ち上がると、畳んであったコートを羽織る。


「もう遅い時間ですし、お暇しますねぇ」

「直樹、駅まで送ってあげなよ」

「松下さん、駅まで送りますよ」

「いえ、いいですよそんなぁ」

「そうですか。じゃあ、気をつけてくださいね。松葉ガニありがとうございました」

「柚ちゃん、カニ美味しかったよー。また美味しいもの持ってきてねー」

「おい。図々しいぞ」

「直樹だって思ってるくせに」

「あ、じゃあ……帰りますぅ」


 柚は直樹と視線を合わすことなく、部屋から出ていった。

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