第10話 四日目③

 直樹は、朱霞に連れられて、亀戸の高級マンションの入り口に立っていた。エントランスからして豪華で、よくわからない菱形のオブジェクトが鎮座している。


「俺は何をしたらいいんだ?」

「ウチらが除霊するの見てるだけでいいよ。ただこの霊符を額に貼ってね」


 朱霞から渡された霊符には、判読不能な文字が書かれていた。


「これは?」


「霊への耐性を下げる効果がある。霊感のない人は霊が見えないからね。半信半疑の客とかに、自分に憑いてる悪霊がどんなものか知ってもらうために用意してるんだ」

「つまり、これを貼れば、俺でも霊が見えるってこと?」

「そういうこと。おにーさんって、陽葵おねーさん以外の霊見たことないんでしょ? ウチから視てもあんま霊力あるように思えないし」

「ただ気をつけてください。霊への耐性を下げるということは、霊障が強くなるということでもあるのですから」

「霊障って具体的になんですか?」


 霊障が何なのか分からず、質問をする。


「習うより慣れろってね。自分の体で実際に学んでもらうためにきたんだから、柊木は余計なこと言わない」

「失礼した」

「じゃ、いくよん」


 そう言って、エントランスに置かれたインターホンで「九〇四」と押した。


「はい」


 インターホンから女性の声が聞こえる。


「朱霞です。依頼を受け、仕事に来ました」

「……どうぞ」


 ガチャッという音が鳴り、ドアのロックが解除される。

 朱霞が、颯爽と入っていく。柊木もそれに続くので、直樹も遅れまいと足を踏み出した。


 外観から高級だと感じていたが、部屋に通されてその豪華さに圧倒された。広々としたリビングだけで直樹の部屋の四倍はある。

 腰掛けた革張りのソファーは、直樹の体重を柔らかく受け止め、極上の座り心地だった。


 インターホンで対応してくれたであろう五十代くらいの女性が、直樹達の前にティーカップを置く。湯気と一緒に立ち上る芳しい香りは、直樹の知ってる紅茶とは次元が違った。

 だが、相対している女性の夫らしき男性は、憤懣やるかたないといった表情だった。


「三百万だとっ? ふざけるのも大概にしろっ! ワシはそもそも悪霊なんて信じていないんだ。家内が五月蝿いから仕方なく話を聞いてるというのに。目に見えないからといって騙し取ろうとしたってそうはいかんぞっ!」


 男性は朱霞に除霊の金額を提示された途端、怒り出したのだ。

 朱霞はティーカップを持つと、紅茶の香りを楽しんでから一口飲んだ。


「美味しっ。普段からこんなお茶を飲んでるの? 家も高そうだし、三百万くらい余裕で払えると思うけど?」

「このガキッ。霊感商法だかなんだか知らんが、もういい帰ってくれっ!」

「あなたっ。藁にも縋る思いなんですっ。お願いしますっ。」

「お前が悪いんだぞっ! 体調が良くないのを、幽霊のせいなんぞにしおってからにっ! お前も、このガキも、金を稼ぐということがどれだけ大変なのかわかっておらんっ! ワシがどんな思いでこれまで働いてきたとっ!」

「さすが。社員を過労死させた社長は、言うことが違うねぇ」


 朱霞が放った一言で、男が硬直した。


「な……。なんでそれを」


 男は妻の肩を掴み、激しく揺さぶる。


「お前が話したのかっ!」

「私は何もっ」

「いいや、お前だっ! お前以外にっ!」

「『この程度の仕事にどれだけ時間をかける気だ? この給料泥棒がっ!』、『ワシの善意に感謝しろよ、穀潰し』、『労働契約法が改正されればなぁ。今すぐにでも解雇できるのに』こんなの恨まれて当然だね」


 朱霞の言葉を聞いて、男は金魚のように口をパクパクさせる。顔面蒼白だった。

 直樹には視えていた。三十代くらいの女性が、ドス黒いオーラを纏いながら、背後から男の首を絞めている様子が。

 女性は苦悶の表情を浮かべ、長い髪が逆立っている。


 男が妻や朱霞に罵声を浴びせるたびに、部屋の重力が重くなり、温度が下がっていくような感覚に陥る。

 息をするたびに、酸素だけでなく、亡くなった女性の恨みまで肺に取り込んでいる気がした。

 体の内側から負の感情で蝕まれていく。心拍がゆるりと遅くなっていく。指先がかじかんで、体の震えが止まらない。


「ううっ」


 直樹がその場に崩れ落ちそうになった時、隣に座っている朱霞の手が左肩に優しく置かれた。

 朱霞の手が触れた瞬間、体温が上昇し、心臓が力強く鼓動し始めた。全身が温かい膜で包まれるような感覚を覚える。


「大丈夫? おにーさん」

「ああ……。ありがとう」


 これが悪霊。自分の意志で成仏できないとしたら、確かに魂の呪縛だ。

 陽葵とは概念からして違う。こんな存在に堕ちてしまったら、どれだけ苦しいのだろうか。

 男のパワハラで過労死した女性の姿は、直樹に思わず死にたくないと思わせるのに十分すぎるほどのインパクトだった。


「話を戻そうか。もし乾由紀子さんが後ろにいることを、自分の目で確かめたいなら手伝うけど?」


 そう言って、朱霞は霊符を取り出した。


「……あんたの力を信じよう。金も払う……」


 男は虚脱した様子で答えた。

 その言葉を聞いて、すぐに柊木はカバンから契約書を取り出した。


「では、これにサインをお願いします」


 男がサインをしたのを確認すると、柊木は契約書をカバンにしまう。


「領収証は要りますか?」


 男が一瞬呆けた。


「あ、じゃあ、念の為」

「わかりました」


 柊木と男がやり取りを交わす中、朱霞は立ち上がる。


「じゃ、パパーっと除霊しますか」


 朱霞は、右の肩甲骨を回し始める。

 そもそも除霊ってどうやるんだろうか。やっぱりお札?

 朱霞に注目すると、小声でブツブツと唱えている。お経か何かか?


「ハワイでバカンス。海の前にあるホテルでリラックス。夕陽を眺めて、贅沢な時間を過ごしたい。昼はガーリックシュリンプで夜はステーキ。サーフィン、いやダイビングがいいか」


 何言ってるんだ? 頭おかしくなったのか?


「一月でもあったかいんだろうなぁ。半袖で過ごせるとか凄すぎ。うわ、めっちゃ行きたくなってきた」

「柊木さんっ! 朱霞さんがっ!」


 直樹は、柊木に助けを求めるが、柊木は気にしていないようだ。


「ハワイ、さいっこーっ!」


 朱霞は謎の叫びを上げながら、男の肩の上を狙って、右ストレートを打ち込んだ。

 バシュンッ! と音が鳴ると同時に、男に憑いていた女性の霊が消えていた。


「はっ? どういうことっ?」

「悪霊にはポジティブをぶつけんの。これが一番効くから」


 朱霞は直樹の方を向くと、ドヤ顔で語った。


「えぇっ? 悪霊ってハワイ旅行で除霊されちゃうのっ? ホントにっ?」

「あのね、言っとくけど」

「ハワイに旅行したいという気持ち程度で除霊出来るのは、朱霞だけですよ」


 柊木が重々しく言葉にすると、朱霞がVサインをしてみせた。


「伊達に最強名乗ってないし?」


 規格外すぎる……。


「乾さんは成仏したけど、あんたの罪が消えるわけじゃない。人の上に立ってるからって、あんたが好き勝手に振舞っていいわけじゃない。自分の罪を認めて、せいぜい贖うんだね」


 朱霞は男に向かって、言葉をかけた。その口調はナイフのように鋭く、冷徹だった。


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