第6話 三日目①
翌朝、直樹がユニットバスで着替えて、リビングへ戻ると、陽葵が腕組みをして待ち構えていた。
「五点っ! 落第っ!」
「いきなりなんだよ」
陽葵は、直樹の髪、あご、上半身を順に指差す。
「ワックス使ってないから、髪の毛が整ってないっ。無精髭が生えてるっ。一昨日と同じ服な上に皺でよれてるっ。スリーアウッ! チェンジッ!」
「チェンジ出来ないんだよっ。全部ないんだから」
「こんな男とデートさせられる柚ちゃんが、可哀想だよっ!」
「ぐっ」
自分の格好がデートに相応しくないことくらい、直樹も重々承知している。だが、この部屋にはカミソリすらないのだ。
「今ならまだギリギリ間に合うでしょっ? コンビニまでダッシュッ!」
直樹はコンビニでカミソリとワックスを買うと、急いで身支度を整えて、駅まで走った。
待ち合わせは押上駅だった。約束した時間に何とか間に合って、安堵する。
柚の姿を見つけ、駆け寄った。
ダブルボタンが付いてるブラウンのコートの下から見える、グレーのチェック柄のロングスカートが、今日はオフであるというアピールに感じられた。
「すみません。待たせちゃいましたね」
「いえいえ。来てくださって、ありがとうございます」
柚が小さく笑う。
「水族館でしたっけ?」
「はい。すみだ水族館です。南條さんは行ったことありますか?」
「初めてです。水族館とかあまり行かなくて」
「私はたまに。時間がゆっくり流れていく感じが好きなんですぅ」
柚が、すみだ水族館の魅力を語るのを聞きながら歩く。
本当に好きなんだな。
「ごめんなさいっ。こんなに喋ったら、行く楽しみがなくなっちゃいますよね……」
「いえ、むしろ期待値が上がりましたよ」
すると柚がアワアワと慌てる。
「そ、それはそれで困っちゃうような」
柚の様子がコミカルで、思わず声が漏れた。
「ふふっ」
「な、ななな、南條さんっ? 今、笑いました?」
「あ、すみません。つい」
右手で口元を押さえる。
「違うんですぅ。私、南條さんが笑ったの、初めて見ました……」
言われて気づいた。あの女にあの言葉を言われてから、一度も笑っていなかった。
それだけ俺は苦しんでいて。だから死のうと思って。
それなのに、笑った?
頭がクラクラする。俺は流されてる。これじゃダメだ。このままでは決意が鈍ってしまう。
思い出せ。痛みを。心を強く持て。
すみだ水族館に足を踏み入れた瞬間。自分が水中に入り込んだような錯覚に襲われる。仄暗く、水槽の生き物たちにスポットライトが当てられている。
クラゲの水槽は、青くライトアップされていて、幻想的な雰囲気に呑まれた。
だが、直樹はそれを口にしなかった。言葉にしてしまったら、自分がこの時間を楽しんでいることになってしまいそうで、出来なかった。
「南條さんっ。クラゲの水槽すごいですよねっ。非日常感があって私、好きなんですぅ。いつまででも見れちゃいそうで。でもでも、この先もすごいんですよっ」
無言の直樹に対して、柚は一生懸命、感想を口にする。
柚に対し、申し訳ないと思う。でもダメなんだ。
結局、柚が一方的に喋るのを、直樹が黙って聞くだけで、水族館を周り終えた。
出口が見えた時のことだった。
「お客様っ。困りますっ!」
女性スタッフらしき声が背後から聞こえて、振り返ると、ペンギンの水槽の中に入ろうとする男性をスタッフが呼び止めていた。
「お前らは中に入ってるじゃねぇかっ! 俺らってぇっ!」
呂律が回ってない。床を見ると、瓶が転がっていた。もしかして酔っ払ってるのか?
女性スタッフは男に触ることも出来ず、言葉で止めようとするが、男は聞くそぶりを見せない。
周りにいるカップルや家族連れが、遠巻きに騒動を見ている。中にはスマホを向けている客もいた。
「ハァッ。ハアッ」
直樹の呼吸が浅くなる。思わず、心臓のあたりを強く鷲掴みにする。
中学生の時の記憶がフラッシュバックする。あの日、助けられなかった痛みが鉤爪のように直樹の心臓を抉る。
直樹は深呼吸をすると、ペンギンの水槽に近づいていった。
「南條さん?」
――大人になりなよ。
だが、あの女の言葉を思い出して、頭の芯が凍りつく。つられて足も止まる。
大人って何だ? ここで見てみぬフリすることか?
違うだろっ。体を動かせっ。
直樹が水槽に辿り着いた時には、男がだいぶ高い位置へと登っていた。
直樹は男の足首を掴むと、一気に下へと引っ張った。
「ぐあっ」
男は尻餅をついてうずくまる。
「いってぇ……。テメェ、何するらっ!」
直樹はしゃがみ込むと、男と目線を合わせる。
「あんたがやろうとしたことは、今日ここに遊びに来た人たちや、スタッフの人を困らせる。やめろ」
「クソガキッ!」
男が直樹を殴ろうとするが、直樹はその拳を片手で止めた。
「威力業務妨害。三年以下の懲役、または五十万円以下の罰金」
直樹の言葉に、男の顔がサッと青ざめる。
直樹はポケットからスマホを取り出すと、男に迫った。
「あんた、どうしたい?」
男は、大人しく、応援に来たスタッフに連れられていった。
「ありがとうございます。酔っ払っていたのもあり、私では言葉で止めるしかできなくて」
女性スタッフが頭を下げる。
「気にしないでください。せっかくの楽しい時間が、嫌な思い出になったら可哀想ですから」
直樹は、周囲を見渡しながら口にした。
「南條さんっ。大丈夫ですかっ?」
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「よかったぁ。って、えぇっ?」
柚が両目を大きく開いて、のけぞる。
「慣れるってなんですか?」
「昔から、トラブルに巻き込まれること多かったんで」
「いやいや、自分から首突っ込んでましたよね?」
「俺にとっては、同じ意味なんで」
「そうですか……」
そう言うと、柚は俯いた。
「あの……」
女性スタッフがおずおずと口を開く。
「もう写真は撮られました? よかったら、私がお二人をお撮りしますけど」
「お、お願いしますぅ」
柚は自分のスマホを女性スタッフへと差し出した。
「じゃあ撮りますねー。はい、チーズッ!」
柚が一生懸命ピースを作っているのに対し、直樹は棒立ちすることしか出来なかった。
女性スタッフが柚にスマホを返すと、笑顔になる。
「よかったら、また来てくださいね」
ちょうど十二時を回ったこともあり、直樹たちは上のフロアで昼食を取ることにした。
洋食屋に入り、それぞれオーダーを済ませる。
「南條さんに聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「俺に答えられることであれば」
柚はコップを両手で握る。その表情は固かった。
「さっきの行動。捨て鉢になってたわけじゃないですよね? 自分のことがどうでもいいから、あんなことしたわけじゃないですよね?」
「……」
柚は直樹の目を見る。その瞳に映るのは、不安と疑念。
「水族館で話した通りです。トラブルに巻き込まれるのは昔からで。今の物件に引っ越したからじゃないですよ」
「南條さんが、今の物件に引っ越したのは、本当にマッチングアプリだけが原因ですか?」
「……」
「お待たせいたしました。ビーフシチューと煮込みハンバーグになります」
二人の前に料理が置かれる。
「松下さん。冷めないうちに食べましょう」
「でも」
「料理が不味くなるような話はやめましょうよ」
「そう……ですね……」
直樹たちは無言で食事を口に運んだ。食べてるうちは会話をしない免罪符になるようで。
カチャカチャとナイフとフォークが食器に当たる音だけが鳴る。周囲のテーブルの会話が二人の沈黙を浮き彫りにする。
食事を終えると、直樹はようやく言葉を発した。
「今日はもう帰りましょうか」
「はい……」
駅まで歩く道筋、柚は無言だった。時折、体を震わせ、寒さのためか、鼻の先が赤くなっている。
心から申し訳ないと思う。でも、水族館に行って改めてわからされた。あの女の呪縛は、今も強く俺を縛り付けている。
駅に着くと、柚が口を切った。
「南條さんは半蔵門線ですよね。私は東武線なので」
明日、朱霞に会う。陽葵を除霊してもらえたら、そのまま俺は死ぬだろう。
「松下さん。ありがとうございました」
直樹は頭を下げる。
顔を上げると、柚の瞳が潤んでいた。
「私。私、南條さんをまたデートに誘いますからっ。絶対にデートに誘いますからっ。だって、私は、南條さんの彼女だからぁ」
そう言って、涙をこぼす。
「ありがとうございます」
直樹はそれだけ言うと、改札口を抜けた。振り返りそうになる気持ちを、何度も押さえながら。
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