第5話 二日目③

 次の瞬間、玄関のチャイムが鳴る。

 直樹がドアスコープを覗くと、そこには柚がいた。


「誰―?」


 後ろから陽葵が聞いてきたので、振り返って応える。


「松下さん」

「キャーッ!」


 なぜか陽葵のテンションが上がる。

 ドアを開けると、柚がおどおどしながらこちらを見上げる。


「南條さん。お弁当作ってきたんですけど。夜ご飯ってもう召し上がりました?」

「えーと……」


 まさに先ほど食べ終えたところだった。

 直樹のそのリアクションで、柚は察したらしい。


「ごめんなさい。帰ります」


 落ち込んだ様子で背を向ける柚を、そのまま帰せるわけがなかった。


「待って下さい。物足りないと思って、コンビニに買いに行こうと思ってたところなんですっ」


 柚は振り返ると、嬉しそうに笑う。


「なら良かったですぅ」


 柚を部屋に招く。柚は自分の分も作っていたらしく、弁当箱を二つテーブルに置く。


「私、お弁当とか作ったことなくて、自信ないんですけど……」

「いえ、喜んで頂きますよ」


 そう言って蓋を開けた瞬間、直樹はフリーズした。

 え? 何この? 何?

 お弁当って、緑だったり、茶色だったりするものじゃないの?

 なんで青いんだ?

 卵焼きらしき物質も、豚肉らしき物質も、米ですら青かった。


「これは……前衛芸術だね」


 陽葵ですらドン引きしていた。


「あの、松下さん。これはいったい……」

「私、南條さんが自殺しないために色々調べたんですぅ。そしたら人間は青色の光を浴びると、自殺率が下がったっていう記事を読んで」


 色が人間の心理状態に影響を与えるというのは、直樹も知っている。だが、青色の食事は、死ぬ気だけでなく、食欲も下がるのではないだろうか。

 だが、善意で作ってくれたのだ。俺を死なせないために。なら食べるしかない。


「い、いただきます」


 卵焼きを一切れ、口に入れる。口の中でガリっという音がした。


「あぁ、卵の殻が入っちゃってますぅっ!」


 柚も卵焼きから食べたらしい。


「南條さん、ごめんなさいっ! やっぱり食べないでくださいぃっ!」


 柚が直樹の弁当箱を掴む。その指には絆創膏が何枚も巻かれていた。


「いや、俺のために作ってくれたんだから、全部食べます」


 直樹は笑顔を浮かべると、再び卵焼きを口にした。


「松下さんは、卵焼きは甘いのが好きなんですか?」

「はい。うちの家は両親二人とも甘いのが好きなので、私も自然と……」

「いいですね。そういうの」


 胃が膨れていたので、直樹が食べ終えたのは、柚とほぼ同じタイミングだった。


「南條さん。食後にハーブティーはいかがですか?」

「ありがとうございます」


 柚は魔法瓶の蓋をコップにして、中身を注ぐと直樹に渡した。

 湯気とともにフローラルな香りが、ふわっと立ち上がり、直樹の鼻孔をくすぐる。


「ラベンダーですか?」

「はい。精神を落ち着かせる効果があるんですぅ」

「いただきます」


 温かい液体が体内に入ることで、体の芯がポカポカする。直樹の死にたい気持ちとは裏腹に、身体が生を主張する。


「あの。明日ってお時間ありますか?」

「特に予定はないですけど」

「私も明日は休みなんです。なので、あの、その、よかったら……で、デートしませんかっ?」


 顔を真っ赤にしながらそんな提案をしてくる柚に、直樹の心に棘が刺さる。


「松下さん。付き合うという話ですけど、考え直してもらえませんか?」

「料理が下手だからですか?」

「違います。あなたが優しい人だからです。あなたがくれる優しさに、俺は応えられない」


 柚がショックを受けた顔をする。唇が微かに震えている。


「俺は死にます。それは今日じゃないけど、でも必ず。その時に、あなたのような人を巻き込みたくないんです」

「ぼっけなすーっ!」


 バチンという音と共に、左頬に電流が走った。ビリビリとした痺れと鋭い痛み。

 柚は大粒の涙を流していた。


「巻き込みたくないとか、今更ですぅっ! 昨日メールをもらった時点で、私は当事者なんですよぉっ! 南條さんは全然わかってませんっ!」


 そのまま柚は両手で顔を覆い、ぐすぐすと泣いてしまう。


「言ったよね。この子、本気だよって?」


 それまで存在感を消していた陽葵が口を開いた。


「直樹はさ。遺書を送られた、この子の気持ち考えたことある?」


 直樹は、陽葵の言葉を受けて、初めて柚の気持ちを想像した。

 あの時は、ただ死ぬことだけを考えていた。メールを送られた相手の気持ちなんて、考える隙間もなかった。


「人と人の縁って、どんな形でも、一度結ばれたら、簡単には解けないんだよ。直樹が死にたいと思う気持ちを持つことを認めて欲しいなら、直樹に死んでほしくないって相手の気持ちも認めなきゃダメだよ?」


 何も言い返せなかった。


「俺が間違ってた。もう、松下さんを巻き込んじゃったんだ……」

「そうですよぉ……」


 直樹は天井を見上げて、大きく息を吐いた。陽葵が上からこちらを見下ろしている。その顔は優しさに満ちていて、でもどこか寂しげだった。

 直樹は、明日のデートの約束を交わすと、柚を見送った。


「あたしもデートしたいなぁー」

「したい相手でもいるのか?」


 すると、陽葵はにやつく。


「なになに。嫉妬?」

「んなわけないだろ。生きてるとき、恋人だっていただろうから、聞いただけだ」

「なんで恋人がいるってわかるの?」

「そりゃ……」


 陽葵が一瞬で顔を近づけてくる。


「ねぇ。なんでなんで?」

「陽葵は……可愛いから」


 体温が一気に上昇する。何を言ってるんだ俺は?

 すると、陽葵はニマニマする。


「ふーん。直樹はあたしのこと、可愛いと思ってくれてるんだぁー」

「俺じゃない。世間一般の評価だ」

「へー」


 くそ。言うんじゃなかった。


「でも、恋人はいなかったんじゃないかなぁ」

「どうしてそう思う?」

「だって。もし好きな人がいたとしたら。あたしはこの部屋じゃなくて、その人の近くに留まったと思うから」


 陽葵は、ポツリと零すように口にする。

 口を開きかけて、閉じた。二十三という年齢で死んだ彼女。死因が何かはわからないが、この性格だ。きっと、やりたいことも沢山あっただろうに。


「地縛霊でいるって、どんな気持ちなんだ?」

「ここに住む人によるかなぁ。今まで三人住んでたけど、うち二人は社会人で、あまり家にいなかったんだよね。おじいちゃんは、一日中テレビ見てたから、あたしも一緒に見てた」

「今までの住人も見えてたのか?」

「あたしのことが見えたのも、会話できるのも直樹が初めてだよ」


 陽葵の十年間を想像する。生前の記憶もなく、生者と関わることも出来ず、この部屋から出ることも出来ない時間を。俺なら。


「だから今、すっごく楽しいよっ」


 陽葵は心底嬉しそうに笑ってみせる。その笑顔が、逆に直樹の心臓に針を刺した。

 なんで俺なんだろう。

 これから先も、この部屋に住み続ける人間の方が、陽葵のためだったろうに。

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