第5話 始まりということらしい。


渋谷のワンルーム賃貸──家具も家電もほとんど揃わない部屋に、僕は薄い段ボール箱を並べた。

銀行残高は¥300,000,000。増え続ける数字を眺めても、何を買えばいいのかまったくわからない。


「まずは引っ越し、ですね」

不動産屋に促されるまま契約を済ませ、鍵を受け取る。部屋の間取り図さえ、自分で読み解けなかった。


数日後、「オフィスも用意しましょう」と勧められ、渋谷の路地裏に小さなサービスオフィスを借りた。

内装は業者任せ。僕はただ「広ければいいです」とだけ伝えた。


──空間に意味を感じられない。


そこで、インテリアデザイナー田中葵(28)に連絡を取る。

「何が必要か、まったく分からなくて……」

そう弱音を吐く僕に、葵さんは資料を抱えて現れた。

「色と素材を決めましょう。照明はこの3種類から」

選択肢を示され、僕は黙って丸を付けた。


一週間後、オフィスは無機質から少し温かみを帯びた。

でも、机に向かう意味が分からないまま、パソコンを起動するだけの日々が始まる。


「社長、秘書がいないと大変ですよ」

葵さんの紹介で、鈴木絵里香(32)がやってきた。

「何でも相談してくださいね」

初日からスケジュール表を見せられ、「これ、明日10時に打ち合わせです」と告げられる。


打ち合わせ? 何のため?

僕はただ「はい……」と答え、部屋を出る。内容はよく分からないまま名刺を配り、相槌を打った。


– 月曜:投資セミナーに顔を出す

– 火曜:オフィス開設パーティーに参加

– 水曜:会計士と資料確認

– 木曜:デザイナーと打ち合わせ

– 金曜:クライアントと面談


予定は絵里香が埋め、多くを僕がなんとなくこなす。

数字も用語もチンプンカンプン。だが、署名だけは求められる。


僕はふと思う。

(こんな僕に、何ができるんだろう?)


それでも、画面に並ぶ増え続ける残高を前に、僕は小さく笑った。

「これが、始まりなんだ……」


そういえば、なんの会社?

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