夏休みだった。今日、地元の商店街では、お祭りを兼ねた歩行者天国が行われている。クラスメイトたちは連絡を取り合って、今頃そこに向かっているのだろう。

 僕は家で一人、スマートフォンでYouTubeを見ながらベッドに寝転んでいた。

 部活にも所属していない僕は、夏休みに学校に行く用事もないので、ずっとユズルとも話すことができていなかった。

 ユズルとずっと話していないと、その存在がまるでまぼろしみたいに思えてくる。あれはおかしくなった僕の妄想で、ユズルなんて幽霊は元からいなくて、僕はトイレでぶつぶつ独り言を言っているだけ。

 その想像の方が、幽霊の何倍も怖かった。

 急に、不安になった。ユズルの声が聞きたいと思った。でも外はもう暗くなっていた。こんな時間に、学校になんて行けるわけない。

 歩行者天国も、とっくに終わっていた。

 せめてもの気分転換にと、家の外へ出て散歩をすることにした。日は暮れていたが外はまだ蒸し暑く、こんな中歩行者天国に行っただろう連中のことを考えると本当にご苦労様だと思った。強がりじゃない。

 コンビニにでも行こうかと思っていたが、気晴らしで少し離れたスーパーへ向かうことにする。

 辿り着いたスーパーの自動ドアが開くと、暴力的なほどの冷気が僕に襲いかかる。鳥肌が立ちそうだ。野菜コーナーを抜け、何かアイスでも買って食べながら帰ろうかと思う。

 冷凍庫の並んだアイス売り場へ向かっているとき、僕の視界の端が影を捉えた。すぐに僕はそれがなんだか分かった。野宮だ。僕は一瞬彼の方に向きかけた視線を意識的に引き剥がそうとし――結局、また彼の方を見た。彼は、駄菓子コーナーの前にいた。

 異様な雰囲気だった。色とりどりの駄菓子を見下ろすように、彼はじっと立っていた。その雰囲気に見覚えがあった。それはまるきり、あの時の彼みたいだった。

 僕も立ち止まって、棚に半分身を隠し彼を見つめた。彼は無言で、駄菓子を見つめ続けている。脇には、生成りのトートバッグが掛かっている。

 野宮は、ゆっくり右手を前に伸ばした。そして、鷲掴むようにごっそりと小さな駄菓子をいくつか棚からむしり取った。一瞬彼の手が、何かを躊躇するように静止して――その手が、ゆっくりとトートバッグへ向かっていった。

 その瞬間、時が止まってほしい、となぜか思った。僕に超能力があったら、全力を使って彼の腕の動きを止めただろう。だけど僕にそんなことはできないから、彼の手は澱みなく鞄の中に差し込まれてしまう。

 彼の手がそこから引き抜かれると、その掌にはもう何も握られていなかった。

 それは、あまりに呆気なかった。

 僕は間違っていなかった。やっぱりあいつは万引きをしていた。

 彼の手は、もう一度、棚へと伸びた。まさか、と思う僕の思った通り、彼はもう一度駄菓子を手に取るとそれを鞄に突っ込んだ。

 それは、もう、万引きというものでもないような気もした。それは何か、もっと別のものにさえ見えた。でも、それは間違いなく万引きだった。

 彼が、鞄に突っ込んだ手を引き抜いて――ゆっくりとこちらを見た。

 目があった。

 間違いなく、僕たちは目があった。

 これまで彼の視界に、彼の世界の中に一度も入っていなかった僕が、確実に認識されていると確信できるような目で、彼は僕を見た。

 彼は、最初から僕の視線に気づいていたのだろうか?

 試されている、と思った。

 僕は今、野宮に試されている。

 野宮のところまで歩いて、手を掴んで言うんだ、「万引きしたんだろ?」。そうしたら、鞄の中から、万引きされた駄菓子がきらきらと溢れ出すはずだ。

 それが正解だって分かってる。

 なのに。

 僕は動けない。

 チャンスだぞ、と誰かが耳元で囁く。これ以上ないチャンスじゃないか。お前が嘘をついていないって、嘘なんかずっとついていなかったって証明できるチャンスだ。お前は間違ってない、お前が正しかったんだと、世界に理解させられるんだ!

 わかってるよ。僕はつぶやいた。

 わかってる、わかってるんだ。

 だけど僕は、やはり動けない。

 その間もずっと、野宮はこちらを見つめている。僕の額から一滴ぬるい汗が伝ったタイミングで、彼は目を逸らした。

 野宮はそのまま、自動ドアの向こう側へと歩いていった。鞄の中に、きらきらの駄菓子を詰め込んで。僕は追いかけることさえできず、その背中を見つめ続けていた。


 結局、アイスも買わずに僕は家に帰宅した。

 頭の中では、野宮が何度も何度も、棚から駄菓子を掴み取ってはトートバッグに入れていた。トートバッグに収まりきらないほどの駄菓子が、ぼろぼろとこぼれるように溢れ出した。

 僕はずっとそれを、じっと見つめながら、心の中で叫んだ。

 やめろよ。

 バレちゃうよ。

 もう、それ以上はやめろって。

 他のやつが――気づいちゃうだろ?

 僕は枕を抱きしめながら、猛烈な自己嫌悪に襲われていた。右半身を下にベッドに寝転んで、壁側を向いてじっとしていた。そのまま眠ってしまおうとしたけれど、頭だけがぐるぐるに冴えてしまう。

 どうしてなんだろう。どうしたかったんだろう。どうすればよかったんだろう。どうしてほしいんだろう。どうしようもないじゃないか。

 野宮の顔が頭に浮かぶ。普段の彼とは違う、無感動な眼差し。事務的な腕の動き。

 枕に口を強く押し当てて、獣のように叫ぶ。柔らかいクッションに飲み込まれた僕の叫びは、外へ響くことはない。

 つらい。どうしようもない。

 何が一番つらいかもよくわからない。

 黙って見ていた自分? 万引きを繰り返す野宮? それとも、そんな世界のあり方?

 僕は枕元に手を伸ばして、スマートフォンを手に取った。そこから伸びる充電ケーブルを引き抜いて、四角い画面を目の前に持ってくる。

 ユズルのことを考えていた。たぶん、この世界から消えたいと思ったから。

 最近はずっとそうだった、何もかもが嫌になると、ユズルのことを考える。だって、ユズルは本当に死んだ。自分で死んだ。この世界に見切りをつけて、自分で自分を消そうとした。そして成仏できなくて、あそこにいる。

 あいつは、どうやって死んだのだろう。どうして死んだのだろう。そうずっと思っていた。

 検索してはいけないと思っていたから、しなかった。

 きっと検索すれば、ユズルの自殺の記事か何かが出てくるだろう。だけど、僕がそれを一方的に知るのは、とても良くないことだと思っていた。それはいつか、ユズル本人から、彼の言葉でちゃんと聞きたい。そう思っていた。だから、しなかった。

 でも、してしまおうと思った。

 だから、することにした。

 ブラウザアプリを立ち上げると、検索窓に学校名と『自殺』という単語を入力した。指が一瞬躊躇したが、無理矢理に押し込む。

 すぐに画面が更新される。

『検索結果が見つかりませんでした』

 ブラウザの白い画面に表示されたその淡白な文字列。

 僕はその文字を見て、安心した。出てこなくて良かったと思った――それと同時に、漠然としたもやもやが湧き出てきた。

 それは、不満だった。

 おかしい。そんなはずはない。だってあいつは、現に幽霊なのだから。ユズルは、死んでいるんだ。

 まだ、僕は知るのをやめられるところだった。でも、もうそれはできなかった。坂の上に置かれていた空き缶を蹴ったときのように、それは転がり始めてしまったのだ。

 誰かが言っていたのを思い出す。桜が狂い咲くのは、幽霊が死んだ日――。

 空き缶は軽快な音を立てて、遠く遠くへ流れていく。それを僕に止めることはできない。

 僕は撮影した桜の写真を開く。美しい桜の写真に感動することもなく、上部に表示されたその撮影日を確認する。

 ――九月十二日。

 検索窓に学校名とその日付を入れた。僕は今度こそ、何かがわかるのだと確信があった。知りたくないという小さな叫びをわざと無視して、再び検索ボタンをタップする。

 画面にずらずらと結果が並んだ。

 そこに並んだ文字に、僕は動揺し唾液を飲み込む。表示された結果は、僕の想像していたものとは全く違っていた。

 転がった空き缶は、道路に飛び出し、やってきた大きなトラックに潰されてしまった。

 僕はスマートフォンを放り出すと、部屋を飛び出して走り出した。


          *


 学校に向かって走った。泣きそうだった。

 僕は、自分の心の動きをようやく理解した。どうして僕が、自分と違ったユズルと話して安心するのか。きっと、ずっと彼のことを『仲間』だと思っていた。彼も、学校で何か嫌な思いをしていたのだと。そして、ついに自分の命を絶つ選択をしたのだと。

 だから、僕はユズルと話していると安心したんだ。

 だけど、それは勝手な思い込みだった。

 頭の中にスマートフォンの四角い画面と、表示された文字が蘇る。

『学校に不審者が侵入』

『不審者はナイフを所持』

『生徒一人が意識不明の重態』

 どうして。

 どうして。

 走りながらねばつく口の中で何度もつぶやく。

 そして、僕は学校の前にたどり着いた。夜の学校。電気の落ちたそれを目の前に見ると、何か恐ろしい建物のように思えてくる。昼間よりも二回りくらい大きく見えるのはなぜだろう? だけど、ひるんでいる場合じゃない。

 走って乱れた息のまま、校門を強く横に引く。がしゃんと音がして、ビクとも動かない。

 呼吸は整わない。僕はそのまま校門を見上げる。僕の背丈より少し高いだけのそれは、さして防犯効果はないように思える。

 宿直がいるかもとか、誰かに見つかったら怒られるとか、そういうことにはもう頭は回らなかった。僕は手を伸ばして校門の柵の上を掴むと、普段使わない筋力をフル動員して体を引き上げた。間の抜けた声が漏れたが気にしない。

 そのまま、校門の向こう側へ。着地に失敗して、手を擦りむいた。

 僕は泣きそうだった。手が痛いからじゃない。頭の中に踊る、最後に読んだ記事のタイトル。

『不審者に刺された生徒、亡くなる』

 どうして。

 どうして。

 ――どうして!

 彼と僕は一緒ではなかった。

 僕はとんだ勘違いをしていたんだ。

『証言によれば、亡くなった中島譲さん(14)は、クラスメイトを庇うように不審者に立ち向かったという』

 これじゃ、これじゃ――本当にまるきりじゃないか。

 僕は鍵の壊れていた体育館への通用口から校舎へと入った。薄暗い校舎、非常口のランプだけが光るその光景を見ても、僕は怯まなかった。なにしろ、これから会いにいく相手は本物の幽霊なのだ。

 誰もいない校舎、整然と並んだ机と椅子を横目に僕はトイレへと走った。

 真っ暗なトイレは窓が開いて、あの桜の木が見えている。真夏、茂った葉が、風に吹かれてがさがさと音を立てる。

 僕は儀式のように(いや、それは本当に儀式なのかもしれなかった)奥から二番目の個室へ入って扉を閉めた。

 呼吸が苦しい。僕は何度も、意識的に肺を強く動かして酸素を取り込んだ。

 そして、声が聞こえた。

「どうしたんだよこんな時間に。今、夏休みだろう?」

 僕は彼の言葉を遮って言う。

「自殺じゃなかったんだろう?」

 自分が思っている数倍、悲痛な声になった。僕は何かに縋るように、いや、何かを引き剥がすように叫んだ。

「ユズルは、自殺したんじゃないんだろう?」

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