僕が学校に侵入した不審者に刺されて死んだあとしばらくは、僕は英雄のように語られていた。でも、それは時と共に忘れ去られ、いつの間にかトイレに出るのは自殺した生徒の幽霊だということになっていた。

 きっと、その方が面白いからだろう。

 最初の頃は、誰かが気付いたはずだ。その霊は、もしかするとあの生徒ではないか? だけど、英雄のように刺された生徒が幽霊になっているというのは、自殺した霊が成仏できないというよりも、もしかすると余計不気味かもしれなかった。

 人間はわかりやすい、理解できる話に飛びつく。あいつの言う通りだ。

 だからいつの間にか、僕は自殺して無念で成仏できないということになっていた。

 だけどそれは、もしかするとそんなに間違いではなかったのかもしれないと思う。

 あの時僕は死んでも良いと思っていた。

 日常がつまらなくて、この先に希望が持てなくて。

 周りが楽しそうに自分の未来の話をしているのが信じられなかった。

 この先に良いことなんてきっとない。

 この先は辛いことしか待っていない。

 新学期が始まってすぐ、僕は憂鬱だった。だけど、周りには、そんな感情をずっと隠して明るく振る舞っていた。

 ある朝、登校して下駄箱で靴を脱いでいる時、悲鳴が聞こえた。振り返ると、男の姿があった。

 何かを握っている。何かを振り回している。

 女子も、男子も、走ってそこから逃げている。

 男は奇妙な叫び声をあげた。

 僕は脱ぎかけていた靴を履き直すと、走り出した男の進行方向を塞ぐように立ちはだかった。

 男のナイフが腹部に刺さったのが、僕の最後の感覚だった。

 僕は勇敢だっただろうか?

 僕は正しかっただろうか?

 僕が次に目覚めたとき、体育館で先生たちが僕の話をしていた。僕は宙に浮かんでいて、体もなく、ふわふわと漂っていた。

 校長も、担任の先生も僕のことを称えた。泣きながら、彼は勇敢だったと、彼のことを誇りに思うと、お前たちも絶対に彼のことを忘れてはいけないと言っていた。

 先生。

 違うんだ。

 僕はみんなを守って死んだんじゃないんだ。

 僕はただ、死にたかっただけ。ずっと死にたいと願っていて、そこにあの男がやってきただけ。

 僕はそんな、褒められることは何もしてないんだ――。

 次に目覚めると、僕はトイレにいた。そしてもう、そこから動くことはできなかった。

 僕は考えた。これは罰なのかもしれない。

 不当に名誉を受け取った、僕への罰なのかもしれない。

 充には、そう説明したかった。

 だけど急に説明しても、彼は信じてくれない気がした。

 だから、彼がいつか僕に死んだ理由を聞いてくれたら、ちゃんと説明しようと思っていた。その時ならきっと、充は理解してくれる。

 だからあの夏休みの終わりも近い日に、夜遅くに突然トイレにやってきた彼が、

「ユズルは、自殺したんじゃないんだろう?」

 そう言ったとき、僕はとても悲しかった。

 その時、僕は初めて彼とは違う世界にいると感じた。それがどういうことなのか、自分でもちゃんと理解できない。だって、そんなのは誰でもわかるくらい自明のことだったからだ。彼は生きていて、僕は死んでいる。でもきっとそれは、生きているとか死んでいるとか、そういうだけの話じゃなかった。僕は今まで、そんなことを問題に思ったことは本当はなかったんだ。僕は、彼のことをいつも近くに感じていた。

 だけど、今の彼はとても遠い。

 きっと、今の彼には僕が何を言っても通じないだろう。僕が彼の目の前に行って、その目を、その孤独な目を覗き込んでしっかり語りかければ、ちゃんとわかってくれるかもしれない。

 だけど、僕にはそのための体がなかった。

 僕は彼と見つめ合うことができなかった。

 僕にできるのは、語りかけることだけ。

 それじゃ、今の僕たちには足りなかった。

 黙っている僕に、あいつがつぶやく。

「――なんとか言ってくれよ」

 その言葉になんとか答えようと、

「充、僕は……」

 そう彼に呼びかけて、僕は言葉に詰まってしまう。何を言っても、きっと今の彼には通じないから。

 黙っている僕に充が言う。

「お前は、みんなを守ったヒーローだったんだな」

 それは、僕が一番言われたくない言葉だった。不当な名誉。充がそう言ったことを信じたくなかった。彼は続ける。

「とんだ勘違いだ。ユズルはきっと僕と同じ側の人間だって、同じことを思ってるって、勝手にそう思ってた」

 充に何を言っても、もう通じないと思う。充がどこから情報を仕入れたのかは、だいたい想像がついた。あの、タッチパネルのついた小さな箱。なんでも検索できる、なんでも教えてくれる箱。僕は悲しかった。僕と充は、そんなものに邪魔されないと思っていたから。

 僕は本当に、充との間に、どんな境界線だって感じたことはなかったんだ。

「でも、お前は……」

 そう言って、充は立ち上がると、個室の扉の鍵を開けた。

 そして真っ暗い廊下へと出て、そのまま曲がってすぐに見えなくなった。

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