Ou Allons-Nous――

 その日は朝から雨で、リハビリの時間も外出はできなかった。施設内はなんとなく不機嫌な人がちらほら。天気が悪いと膝が痛むとか気圧が低いと頭痛がするとか、皆よく言っている。

 トラブルが起きたのは昼食後の体操の時間だった。佐一さんの伸ばした腕が百之助さんの顔にクリーンヒットして、喧嘩になった。いつもは穏やかな二人なのに、まるで掴みかからんばかりの様相だ。

「やっぱり、戦争の記憶があるからスイッチ入ると止まんないのかな」

 呟くと、隣に座っていた明日子さんがおやつの干柿を噴き出した。

「何言ってんの。第二次大戦なんて私たち経験してるような齢じゃないわよ」

 まあ、中には百歳近い人もいるから出征した人もいるかもしれないけれど。キクさんが七十六で、喧嘩してる二人も同年齢くらい、明日子さんは私たちよりもう少し年下だ。

「終戦って、いつだっけ」

「昭和二十年よ」

 昭和でいわれてもぴんとこない。

「西暦では?」

「一九四五年」

 淀みなく答える。そうか、キクさんはまだ生まれてないのか。あぶないあぶない。それにしても、百歳近い利用者もいるということだから、私達はこれから二十年程もここで暮らしていくということなのか。想像もつかない長さに気が遠くなる。

 ガシャン。

 何かが割れる音に、談話室の視線が一斉に集中する。床にはプラスチックのコップが転がっている。

 百之助さんが投げたのを、佐一さんが避けて、絵の額ガラスに当たったようだ。ひびが入ってしまっている。それで我に返ったのか、二人は舌打ちをしてさっさと自室に引上げていった。 

 幸いひびだけで済んだが、危ないからと介護士さんが絵を下ろし、ガラスだけ外して、絵を飾りなおした。(あまりに大きいから片付ける場所がなかったのだ。)

 しかし、不運は続く。

 額ガラスのなくなった無防備な絵が心配で、消灯前トイレに出たついでに談話室に寄った。誰もおらず、テーブルの上も椅子もすっかり片付けられている。絵の前に立った私は目をみはった。

 絵が! 

 慌てて詰所へ向かう。イワイさんが夜勤だったはずだ。思うように動かない足がもどかしい。血相を変えて飛び込んできた私とともに談話室へ引き返す。

 二人で絵の前に並ぶ。改めて愕然とする。

 さっと墨を引いたように絵の中央部分が黒く塗りつぶされている。

 ちょうど赤い実が生っていたところ。たぶんあの禁断の果実こそが入れ替わりに必要なアイテムなのに!

 声にもならず、ただただ絵を見つめる。

「誰かよろめいた拍子に手をついたり、荷物が当たったりしちゃったのかしらね」

 イワイさんは飄々としている。あわあわ言葉にならず口をぱくぱくさせる私を、彼女は面白そうに見ている。

「大丈夫よ。知り合いに助っ人を頼むから、一日だけ辛抱して。ちょうど明日も夜勤だから、また夜にね」

 そう言って自室まで連れて行かれたけれど、とても眠れなかった。

 お蔭で翌日はぼーっとしてたし、気が気じゃなくて何度も談話室に足を運んだ。何度見たって絵は無残な状態で、なのに誰も気にしておらず、なんなら汚れに気付いてさえいないのだった。

 長い一日がようやく更けて、夜勤スタッフの一回目の巡回が終わったタイミングを見計らって、部屋を抜け出した。暗い談話室の隅で息を潜めていると、イワイさんが助っ人を連れてやってきた。部外者ながら彼女の手引きで忍び込んだらしい。見知った顔だ。

「キクさん?!」

 思わず声を上げて、慌てて両手で口を塞ぐ。

「なんでキクさんを? 専門家を連れてきてくれるんじゃなかったの」

「そんな都合のいい知り合いなんていないわよ。キクさん美術部だしちょうどいいでしょ」

 小声で非難するも、イワイさんは悪びれもしない。

 どれどれ、とキクさんが絵の前に進む。私もあとを追う。

「あらら、これはひどいね」

 改めて言われると、絶望的な気になる。

「どうしよう、戻れなくなっちゃう!」

 感極まってつい悲痛な声を出す。これが本心なんだと痛感する。

「心配性ね」

 キクさんが私の背中を撫でる。その温かさに少し落ち着く。私の手、こんなに力強いんだ。

「人生で起こるトラブルの大半は自力でなんとか乗り越えられるもんよ」

 ヒトミがまるでアイドルみたいにぱちんとウインクする。うわわ。だいぶ冷静を取り戻した。

 三人で絵の前に並ぶ。隣に立つキクさんはゴスっぽい黒いワンピースを着ている。

「うちにそんな服ありました?」

「あったあった」

 返事をしながらも、瞳は真っ直ぐに絵を見つめている。

「赤い林檎が消えているね」

「うん」

 キクさんが美術室から拝借した油絵の具を取り出す。

 そして。


「もういつお迎えが来ても構わないわ」

 そんな風に話す利用者仲間が信じられなかった。

 若い体は自由で爽快だった。ほんの少しの間だけ。そう思って、二週間自分の身体の様子を見に行くことさえせずに、若い体で十分に羽を伸ばした。手首に残る幾筋の傷痕は見ないふりをして、たった二週間だけの自由を謳歌した。

「戻りましょう」

 半月ぶりに自分の体と対面した。彼女はベッドの上で凪のように静かに座っていた。戻りましょう。彼女の手を取ろうとしたが、細い腕はさっと引っ込められた。

 それから、説得しようと何度も彼女のもとに通ったが、だめだった。彼女は頑なだった。もとの生活よりも今の方が穏やかで満たされていると主張した。周りからこんなに優しくされたことはないと。毎日々々彼女を訪ねて話をした。その間私は自分の身体のことなんかよりも、ただ彼女が自らの人生を手離さないようにということだけを考えていた。その時ようやく、いつ迎えが来てもいいという気持ちが少し分かった気がした。

 だけど。

 特別悪いところもなかったはずの私の身体は、わずか一年で急激に衰え、最後は誤嚥性肺炎であっけなく逝ってしまった。弔問した葬式で自身の遺影を呆然と見上げた。掲げられた写真はまだ施設に入る前、私自身が写ったものだった。

「入れ替わった初日に実感した。あの子、なかなかハードな家庭の子だって」

 ヒトミちゃんに黙ってキクさんの様子を見に行った時、彼女は言った。

「厄介なのよ。確かに異常なんだけど、絶妙にどこかへ助けを求めるような状況でもなくて。ああだからあの子は、って感じたわ。ただ……、子どもにはどうしようもなくても、大人なら何とかしてやれるんじゃないかと思ってね」

 お節介かしら? とキクさんは澄んだ瞳を向ける。かつてあなたもそういうつもりで入れ替わったんでしょ、と。私はただ黙って微笑んだ。

 私にはキクさんのような思いやりはなかった。利己的な思いで入れ替わりを享受した。

 高等学校を卒業して、家事手伝いで一年過ごした後、結婚した。専業主婦として二男一女を育てた。ようやく子育てが終わった頃に、孫の世話が始まり、引退した主人の相手をして。ホームに入居する時にようやく自分のことを振り返って。そして、愕然とした。私には何もない。狭い世界で生きてきた。友人もほとんどおらず、就労経験もなく、夢を追いかけるどころか持ったことさえない。家族のために尽くしたが、主人は鬼籍に入り、子ども達は新たな家庭を築き、私はホームで一人ぼっち。毎週誰かしらが面会に来てくれるし、たまには旅行に誘ってくれる。不幸なわけではない。けれど。取り返しのつかない後悔と焦燥に襲われるが、今更どうしようもない。

 そんな折に入れ替わったのは、神さまが与えてくれたチャンスだと思った。ほんの少しだけでいい、若い体で精一杯何かに夢中になりたかった。

 手首の傷が治るまでと思っていたけれど、もっとすぐに彼女のもとに参じていたら、結果は変わっていたろうか。

 わからない。ただ、同じような経験をする人達をサポートすることしかできない。

 罪悪感に苛まれて道を外れたこともあったが、色々あって思い直した。今更どうしようもない。前に進むしかない。私は彼女が諦めた彼女の身体を精一杯生きることにした。


「ヒトミちゃん、時々面会に来てくれてますね」

「ふふ、今だけよ。じきに学生生活が充実して忙しくなるわよ」

 そうは言ったが、少女は顔を出すたびに律儀に他の利用者にも挨拶していくから、いまやホームの人気者だ。

「あのまま美術部を続けているとか」

「ええ。殊勝な子よね。優しいからこそ傷つきやすくて苦労するのよね」

 あなたみたいに、と視線を送ると、イワイさんはふるふると首を横に振った。

「私、この絵が好きなのよ。作者が愛する我が子を想って書いたものだから。――けど、喪ってからいくら手を伸ばしたってもう遅いのよね」

 しみじみ絵を見上げる。イワイさんは隣できゅっと口を結んでいる。

「やっぱりこれはレプリカね。一度でいいから本物を見てみたいものだわ。ボストン美術館の所蔵だったかしら。うーん、もう叶わないでしょうねえ」

「強く願っていれば叶うかもしれませんよ」

「そうねえ。……自分の体に戻ってから、以前より少し歩きやすいのよ。あの子、リハビリもずいぶん真面目に頑張ってくれたのね。私も頑張らなきゃね」

「そうそう、日々を愉しむには未来が永遠に続くかのように夢を持つことも大事です。……って、あれっ。キクさん、スマホ持つようになったんですか?」

 イワイさんが目敏くポーチから覗く端末を見つける。

「ふふふ。当たり前じゃない、いまもう令和よ。これ一つあれば絵の勉強だってできるんだから。便利な時代よねえ」

 使いこなすには時間が掛かりそうだが、来るたびにヒトミが親切に教えてくれる。本当に奇妙な体験をしたものだ、この絵のおかげで。

 懸命に手を尽くしたつもりだが、改めて見ると修正箇所はそれと分かるほど下手くそだ。林檎だか干柿だか分かりゃしない。よくまあ誰も気付かないものだ。絵にはすでに新しい額ガラスが嵌められている。もっと腕を上げたらまたイワイさんに手伝ってもらってこっそり修復したいところね。

 あら、ここには手を加えていないはずだけれど、なにか……。

 はっと振り向くと、イワイさんと目が合う。相変わらず何を考えているのだか、飄々としている。

「あなた、またいつか入れ替わる気ね?」

 冗談めかして言うと、彼女はただ穏やかに微笑を浮かべた。

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われわれわれは 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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