Que Sommes-Nous?

「本物?」

 不意に声を掛けられて、ゴミ袋を持ったまま足を止めた。キクさんが眼鏡の奥の大きな瞳でじっとこちらを見つめている。

「え……?」

「ふふん、本物のはずないわよね」

 戸惑う私を横目に独りで答えを出した彼女は、すいと視線を壁に向けた。つられて目を上げる。談話室の壁には幅四メートルはあろうかという大きな絵が掛かっている。

 右端には生まれたばかりの赤ん坊、目線を進めると少女から成熟した女性に、そして左端には老女が描かれている。

「イワイさん。あなた、これに似ているわ」

 キクさんが言う。

「この女の人ですか?」

 老女の隣に描かれた成人女性はすらりとした体躯で確かに私に似ているかもしれない。と思ったのに、キクさんは首を横に振った。

「こっちよ」

 彼女が指したのは、異形の人物像。少女と老女の間に立ち、まるで世界を反転せんとするかのように左右に手を構え口を引き結んでいる。青白い姿は神様のようでもある。これが? きょとんとしていると、キクさんは絵を見つめたままさらりと言った。

「私、この絵好きなのよね」

 描かれた女たちは豪快な筆のタッチによりむしろ肉感的な生命力を感じさせる。女の生涯を描いたようなその絵画を、私達はしばらくの間しずかに見つめていた。


 おばあさんになって二週間、イワイさんがあれこれ立ち回ってくれて、私はようやく私の様子を見に行くことになった。といっても、リハビリの歩行コースとして中学校のグラウンド脇を組み込んだだけだが。それでも大いなる前進だ。ちょうど体育の時間と重なるようイワイさんが調整してくれた。

 入れ歯の手入れも、毎食の服薬も、いっこう慣れない。けれど、万全の状態でキクさんに身体を返せるように、日々をこなした。

 そうして、その日。施設から中学校までは一キロもないはずだけれど、キクさんの足で三十分も掛かって、グラウンドが見えた時にはもうへろへろ。イワイさんが押して来てくれた車椅子に座って、道路脇からグラウンドを見た。

 グラウンドの隅に白い体操服が集まっている。準備運動中のようだ。胸がどきどきする。見るのが怖い。

 準備運動では毎回二人組を作らされる。大抵私はあぶれてしまう。自分のそんな姿、見てられない。運が良ければ、誰か休みがあればペアを組めるかもしれない。

 なのに。グラウンドに立つ中学生のヒトミはさっさと近くの女子に声を掛けて組を作り、そのうえ手を振って余った子を加えてさっさと三人組を作ってしまった。

「キクさん、上手くやってるみたい。私より」

 呟くと、私の思いも知らずイワイさんは何気なく返事した。

「年の功よ。キクさんはキャリアウーマンで管理職まで務めた人だから、人の扱いにも長けているしね」

 年の功というけれど、私には時間がすべてを解決するとは思えない。それならば、私の両親だってあんな風ではないはずで。

 その日は声を掛けずにそのまま帰ろうと思った。が、こちらに気付いたキクさんがグラウンドを突っ切って駆けてきた。

 まだ走るのには慣れないわ、と言って息を弾ませる。

「こちらから出向かず申し訳なかったわね。こっちもとりあえず日々をこなすのに精一杯でね」

 眉を八の字にする。私の顔なのにその表情から本心は計り知れない。

「そっちはどう?」

「なんとかやっていますよ」

 私の代わりにイワイさんが答える。キクさんの大きな眼鏡のレンズに入る太陽の光が眩しい。遠出をしたせいか、くらくらする。

「そう。悪いけど、もうしばらく辛抱してね」

 キクさんの声が遠い。

「ねえ、……」 

「ヒトミー! 順番だよ、早く戻って!」

 キクさんが何か言い掛けたタイミングで、大声が向けられる。条件反射で顔を上げる。ワンテンポ遅れてキクさんも振り返る。グラウンドの隅からクラスメイトが手を振っている。

「分かった! すぐ行く!」

 じゃあ、またね。そう言ってキクさんは駆けていく。走り方ちょっと変だけど。私が使っていた時よりもずっと軽やかな足取りで。

 ぼーっとする頭でしばらく彼女達を眺めていた。イワイさんは黙って私の肩に手を添えた。

 それから一日おきのペースでイワイさんは私を学校まで連れ出してくれた。ただでさえ介護の仕事は大変なのに、面倒をかけて本当に申し訳ない。キクさんの方が施設に面会に来ようかと言ったけれど、イワイさんが制止した。利用者さんたちは案外いろんなことを見ているし気にしている。身内でもない中学生が頻繁に出入りしていれば嫌でも目に付くだろうし、そのせいで家族が出張ってくることになればさすがに入れ替わりを隠し切れない。なにより……。利用者さんの中には家族がまったく面会に来ない人も結構いる。当然家族がいない人だっている。平気さ、気にしない。なんて口では言うけれど、皆、誰のところにどれくらいの面会が来たか、気にしている。自分の人生がどれくらい正しかったのかを確かめるかのように。

 そんな孤独を紛らせるために学生の課外学習は行われるのかもしれない。中には体験の一日のうちにすっかり打ち解けて楽しそうにお喋りに興じている子もいた。けれど、その一時だけだ。課外学習のあとも施設に足を運ぶような殊勝な子はいない。だいいち中学生は自分の周りのことで毎日精一杯なのだ。

 中学生の体を手にしたキクさんも例に洩れないようだ。

「美術部に入ったわ。授業では水彩画しかしないけど、部活では油絵の具を使えるのよ」

 嬉しそうに報告してくれる。絵を描くのも何十年ぶりだし、油絵なんて初めてよ。同じ部活の子に教えてもらって四苦八苦してるわ。と、生き生きしている。

「油絵なんて、親に見つかって何か言われなかった?」

 恐る恐る尋ねる。制服の脇に赤い絵の具がついてるし、部活帰りなら油絵独特のにおいもするんじゃなかろうか。

「ああ」

 キクさんは何でもなさそうに答える。

「べつに何も。母親が気付いたのは私が油絵始めて三日もしてからようやくよ。いい顔はしていなかったけれど、どうってことないわ。父親の方は未だに気付いていないかもしれない」

 あっさり言うけれど、私は気が気じゃない。そんなあっさり済むはずはない。何か一悶着を起こしたに違いない。そう思うけれど、恐ろしくてそれ以上は聞く気にならない。

「へたくそな漫画なんか描いてないで勉強なさいよ」

 小学生の時に母から言われて以来、私は絵を描くのをよした。

 なのに、キクさんは私が諦めたものをいとも軽々と手にしていく。ヒトミの人生は会いにくる度にどんどん充実していくようだった。なのに、私はずっと施設の中で代わり映えのしない毎日を過ごしている。そう考えてはっとする。家庭と学校という鳥籠に閉じ込められて代わり映えのない日々を過ごすしかない。中学生の私はそう考えていた。けど、違ったんだ。代わり映えしないのは、環境のせいじゃなくて、私自身のせいだったんだ。

 ますますうんざりする。

 自由な体はキクさんにどんどん馴染んでいくようだし、私も。

「体育教師がイワイさんのこと気にしてたわよ。あの美人は誰だって」

「あらまあ」

「介護施設の職員さんだって教えたら、改めて生徒が世話になった挨拶に行こうかなんてそわそわしてたわよ」

「やーね。でも懇意にしておけば今後助けになることもあるかしら」

「イワイさんたら! あなた独身でフリーなんでしょ。あの先生いい人そうだし、美男美女でお似合いよ。取り持ってあげるから」

「そういうのいいですから!」

 私の焦燥をよそに、二人はきゃっきゃとガールズトークが弾んでいる。

 はたして本当に、戻れるのだろうか? 不安になる。

 けれど、そもそも――。今まではただ早く戻らなきゃいけないという一心だった。けれど、本当に戻るべきなのだろうか。分からなくなった。


 施設での毎日は凪のようだ。元の生活とは違って。

「……戻れるのかな」

 無意識に呟いていた。意識的には、このままの方が万事丸く収まるのではないか、私は毎日を平穏に過ごせるし。確かに余命は長くないかもしれないが、本当だったらもっと早くに生きることを諦めていたはずだ。一方、キクさんの方は疑いないくらい若い青春を満喫しているようだし。それに、彼女の方が私の体をずっと上手く使っている。

 そこまで考えているのに、なお本能が戻るすべを探してる。戻ったって仕様がないのに。

 私の呟きを捉えたイワイさんが明るく笑う。

「戻れるわよ」

「どうやって元に戻るの?」

 訊くと、イワイさんは一瞬開きかけた口を閉じた。凪のような微笑を私に向ける。

「あなたはどう思う?」

 尋ね返されて、私も口を結ぶ。思うところはあるのだ。

「たぶん……」

 二人同時に視線を上げた。

 入れ替わる前、最後にキクさんと対面したのはこの絵の前だ。入れ替わってからは毎日眺めた。赤ん坊から老女まで、女の一生。この絵の前でキクさんは若い頃に戻りたいと言った。私はさっさと人生を終わらせたいと考えていた。それから――。

「イワイさんはどれくらいの期間入れ替わっていたの? どうやって元に戻れたの?」

 私の不安に、イワイさんは微笑んだ。いつものように内面の揺れを感じさせぬ穏やかな笑顔で。微笑を湛えたまま、そっと首を横に振った。

「戻らなかった」

「え?」

 イワイさんは微笑んでいる。いつものように。私はその表情から彼女の心を読み取ることができない。いつも他人の顔色を伺っているくせに、肝心なところで役に立たない。代わりに彼女が自ら言葉を継ぐ。

「私は、老いた体から若い体に入れ替わったまま、今まで過ごしてる」

 驚いて目を剥く私を、彼女はじっと見つめ返す。逃れられない。

「大丈夫よ、戻る方法は知っているわ。けど、私は戻らなかった。それだけ」

 彼女はもう笑っていなかった。

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