われわれわれは

香久山 ゆみ

D’ou Venous-Nous

 目が覚めたら、おばあさんだった。

 カーテンの向こうはまだ薄暗くて、へんな時間に起きてしまったなと思った。頭がぼーっとするけれど、いつもみたいにただ眠いのではなくて、なんだか身体全体がだるい。しばらくベッドで横になったまま天井を眺めていて、ふと。――え、ここはどこ?

 見慣れた自室の薄緑の天井ではない、一面真っ白。首を動かすと、暗がりに見える室内に見覚えがない。病室のような……。事故にでも遭ったっけ? いや、昨日は課外学習のあと学校に戻り、塾に行って、家に帰って、いつも通りベッドに入ったはずだ。

「……ひっ」

 カーテンの隙間から覗く人物に、思わず声を上げた。一瞬後、さらに声を上げられないくらいの衝撃。自宅ならマンションの七階だ。窓の向こうからおばあさんが覗いている。そう思ったが、違う。……違う? 嘘、でしょう? 

 おばあさんは目を見開いてじっとこちらを見ている。私がそうしているであろう表情のままに。恐る恐る右手を上げて自分の頬に触れる。おばあさんも寸分違わず同じ動きをする。――私だ。窓の向こうからおばあさんが覗いているのではない、どうやら彼女は暗い窓に映る私自身だ。

 呼吸するのも忘れて呆然と見つめる。

 そしてはっと気付いた。このおばあさんを知っている。昨日課外学習で訪れた高齢者施設の利用者のおばあさんだ。体験の最後に一対一で話を聞く時間を設けられ、人見知りの私はとても気まずい時間を過ごした。あの、おばあさんだ。とすれば、ここは昨日の高齢者施設なのか。

 ――と、出入口の引戸の磨りガラスの向こうに明かりが見えた。微かに足音が聞こえる。人だ! 助けて! 

 助けを求め、ベッドを降りようとするも、脇の転倒防止用の柵に阻まれる。柵のない足元の方まで体を移動させ、床に足を下ろす。ヒヤリ。裸足だが構わない。暗いせいか足元がふらつく。家具に手をつきながらようやく引戸を開く。人影はすでに廊下の向こうだ。

「あの」

 呼び掛けたものの、我ながら驚く程の小さな声。ぐっと息を吸い、もう一度声を出す。

「あの!」

 角を曲がりかけた影が止まり、懐中電灯が振り返る。

「キクさん? どうしましたか?」

 若い女の人がにこやかに微笑むも、懐中電灯に照らされた表情は不気味でざわざわする。が、そんなどころじゃない。

「あの、私、本当は中学生なんです。キクさんじゃなくて、ヒトミです。なんか起きたらおばあさんになってて……」

 思うように舌が回らないが、懸命に伝える。パッと懐中電灯が私の顔に向けられる。なに? 眩しい! 何をするのだと抗議の目を女性に向ける。と、彼女はじっとこちらを見つめている。探りを入れるような眼差しで。先程までの微笑みは消え、眉間にしわを寄せ真剣な目で見つめる。

 ――あっ。

 彼女の視線の理由に気付いて、はっと口をつぐむ。そうして今度は私が彼女に微笑を向ける。

「ええと、ごめんなさい。へんな夢を見て……、寝惚けちゃったみたい。まだ早過ぎるし、もう一眠りしようかな」

 今度は良い夢を見られればいいんだけれど、と笑い掛けると、ようやく彼女も険しい顔を解いた。ベッドまで付き添われ、横になった私の上にきれいに布団を掛けてから、「おやすみなさい、キクさん」とようやく彼女は部屋を出て行った。

 磨りガラスの向こうの懐中電灯の光が見えなくなってじっくり百数えてから、私はそっと体を起こした。眠れるわけがない。

 まずかっただろうか。裸足も見られたろうか。へんな報告されやしないか。「認知症の疑いあり」なんて。だが、その報告がどんな影響をもたらすのかというと分からない。けれど、昨日見学した際に、この施設は身体不自由な高齢者のための施設で、認知症の方は別の施設に云々と言っていた。ただでさえ先程のように不審な目で見られるのに、認知症と判定されればきっともう何を言ったって信じてもらえない。だって、私自身この状況を信じられないのだから!

 どうしたものかと考えても上手く考えがまとまらないまま、朝になった。

 名案が浮かぶまでは、とりあえずこのおばあさん――キクさんの体での生活をやり過ごすしかない。誰にもへんな誤解をさせないように。

 願わくば、これが夢で、目を覚ませば元に戻っていますように。

 そんな願いはどの神様に通じることもなく、キクさんのままの生活はあっという間に五日経った。

 五日間、とにかく自由がないことに辟易した。

 スマホさえない! まず、現状をスマホで検索してみようと考えた。知恵袋で案外答えが出るかも。そう考えたが、部屋中探してもスマホがない。充電器もない。もしやと思い、介護士さんにさりげなーく探りを入れると、キクさんはスマホどころかガラケーさえも持っていないという! スマホが欲しいと言うと、ご家族に相談せよという。ご家族に相談するための電話機がない。次回面談に来た時に相談せよ。いつ来るのか、分からない。当てになるのか、分からない。スマホなしの絶望感で二日間呆然と無駄に過ごしてしまった。

 ならば図書館だ。と、勇んで出て行こうとしたら、介護士さんたちが慌てて制止しに来た。また疑いの目で見られて、言い訳に骨が折れた。利用者は許可がないと勝手に施設を出てはいけないらしい。どうやって許可を得るかというと、それもご家族の同意だと。それって人権侵害なんじゃないのと言うと、「そうですよねえ、私達も安全責任との狭間でつらいですよお」とイワイさんは眉を八の字にして言った。

 数日間を過ごして、この施設で私が最も信頼を置ける人物であると判断したのが、介護士のイワイさんだ。母より少し若い、三十代であろう彼女はとても気が利く。

 施設では二日に一回入浴の時間がある。初回は最悪だった。銭湯さえろくに行ったことがないのに、集団で浴室に放り込まれて、自分で洗えるというのに頭から足先までごしごし洗われ始終話し掛けられ着衣完了するまで露骨に監視された。その点、イワイさんは利用者によってきちんと対応を使い分けているようで、私が入浴時もたもたしていてもほとんど会話も手も掛けることなく、必要最低限のチェックをさっと済ませ、あとは気にならない距離感でただ見守っている。脱衣所の衣服も着替えやすいようセッティングしてあり、難なく一人で着替えられた。

 入浴だけではない、一事が万事その調子で、痒い所に手が届く、不快を感じさせない。イワイさんの介護は心地よい。なんでこんなにお年寄りの気持ちが分かるんだろうってくらい。が、なにより彼女はスタイルがいい。すらりとした身長に無駄な肉はついておらず、出るとこは出てる。束ねられた長い髪は艶やかで、薄化粧ながら隙のないメイクをしている。だから、おじいさん達から人気。その上さっぱりした性格だから、タカラジェンヌのトップスターみたいだといっておばあさん達からも人気だ。

 イワイさんイワイさんと皆が寄ってくるけれど、けっして悪口や噂話には乗らないし、聞き及んだ秘密を吹聴するようなこともない。(というのは、お喋りな利用者さんから聞いた話。)

「リハビリで外周する際に図書館まで足伸ばせるか、理学療法士に相談してみましょうか」

 空き時間にそう話掛けてきたイワイさんに、私は思い切って言ってみた。

「あの、おかしなこと言いますけど、へんだと思わずに聞いてほしいのだけど、私本当は中学生なの」

 まじまじと私を見つめるイワイさんの視線から、思わず顔を背ける。

「へえ」

 平淡なトーンで返され、かえって私の方が驚いて顔を上げる。イワイさんはいつもと変わらぬ飄々とした様子で、面白い話題を提供されたとでもいった程度の感じで穏やかに微笑んでいる。

「それで、あなたはキクさんとはどんなご関係? お孫さん?」

「え、えと」

 ふつうに質問され慌てふためく。早くしっかり返事しなきゃ冗談だと思われちゃう。そう焦るほど、言葉に詰まってしまう。

「孫じゃないです。中学生で、……せ、先週ここに課外学習で来たんです。それで、そうだ、談話室の絵が飾ってある手前の、ちょうどここの席でおばあさんと話したんです。っていっても、初対面で喋ることなんてなくてしーんとしてて」

 それで私はすでに帰りたくて仕方なかったけれど、精一杯笑顔に努めていた。

「この絵、すごく大きいですね」

 なんて無意味な発言を懸命に繰り出したところ、おばあさんもそこで初めて私に気付いたみたいにようやく口を開いた。

「学校は楽しい?」

「え、あ、はい」

 思わず嘘をついた。おばあさんはふっと笑った。

「楽しくないんでしょ」

「はい」

 今度はするんと正直に答えた。うちは祖母がいないから、普段おばあさんと接する機会はなく、目の前の彼女に魔女を感じた。痩せ型ですらりとした黒いワンピースを着こなす短髪グレイヘアの魔女は、眼鏡でさらに大きくなった瞳をじっとこちらに向ける。まるで試すように。

「あ、あの、おばあ、あ、……キクさん、は、楽しいですか。えと、楽しかったですか」

 視線から逃れるため質問で返すと、キクさんはふうと息を吐いた。

「楽しいわけないじゃない」

 笑ってる。

「私はね、キャリアウーマンだったの。当時はまだ珍しくてね。私が働く女性の道を切り拓くんだって、がむしゃらに働いた。子ども達の世話は、母や保育施設やシッターなんかを総動員して。最低でも男の人と同じだけ働かないと認めてもらえないから。読書とか映画とか旅行とか趣味も全部我慢して、老後の楽しみに取っておくんだって。それでプロジェクトリーダーを任されたり、会社初の女性課長になったりしたんだけど、そこまで。あれやこれや理由をつけられてそれ以上昇進することはできなかった。その内に無理がたたって身体を壊して。そのまま退職したんだけど」

 何にも残らなかった。と、キクさんはふふと乾いた唇を歪めた。

 子ども達には恨まれていたし、母からも。家庭に私の居場所はなかったわ。

 たのみの趣味も、齢とって小さい字は読めないし、耳も聞こえにくいし、挙句脚を悪くしてとても旅行どころじゃない。そうだ、小さい頃よく絵を褒められた。また絵を描いてみよう。そう思ったりもしていたんだけどね。この脚じゃもう独りで生活するのは厳しいんだけど、当然一緒に暮らそうなんて言ってくれる人は誰もいないから、老人ホームに入れられて。まあここじゃあ何かとままならないわよね。まあ一番ままならないのは自分自身の身体なんだけど。

「ああ、年寄りなんて最低よ。もう一度若い時から人生をやり直したいわ」

 大きな独り言みたいにキクさんは言った。なぜ初対面の私にそんな話をするのだろう。もしかしたら彼女の認知機能では目の前の私が視界に入っていないのだろうか。

「ね」

 同意を求めるように彼女は私に視線を向けた。

 私は「若くても毎日死にたい」という言葉を飲み込むので精一杯で、ただ苦笑いを返した。

 キクさんはふっと笑って、視線を壁の絵に向けて、あとは時間いっぱいまで石像みたいにそのままの形で固まっていた。仕方がないから私もぽかんとその絵をただ見つめていた。

 とりとめなくそんな馴れ初め話までしてしまったところ、イワイさんは「キクさんらしい」とくすくす笑う。

「それで、あなたの名前は?」

 タメ口になっている。本当に信じたのだろうか。

「ヒトミです。けど……」

 本当に信じてくれたんですか? 恐る恐る尋ねると、イワイさんは大きな目をいたずらっぽく細めて小声で言った。

「信じるよ。だって、私も入れ替わりの経験者だから」

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