第22話
風は、かたちを持たない――
だが今、想太の目に映るこの空には、明確な“層”が存在していた。
薄青から群青へとゆるやかに濃度を変える空。
光の角度に従って反射する浮遊粒子。
遥か下に滲む雲帯、その輪郭はかすかに赤く、陽の名残をなだらかな地平線の向こうに運んでいた。
視界は広い。だが、それだけではなかった。
想太は今、空を“感じていた”。
前方、斜め上、背後。
風はそこにある。押し寄せるのでも、包み込むのでもなく――
ただ、在る。
「風の背中を捉えられると、空は“水平”じゃなくなるの」
イゼルの声が、魔導通信を通じて届く。
「斜め、縦、曲面。……全部が“進行”に変わる。
君は今、“選べる”立場にいる。――どの空を、どの角度で走るか」
想太は深く息を吸った。
機体の帆が風を掴む音が、まるで鼓動のように鳴る。
目を細める。
見えた――“裂け目”のような、風の空隙。
あれはただの空ではない。“風の軌道”そのものだった。
想太はそっと腰をずらす。
ほんの僅かに重心が前へ、右へ。
弦を弾くように、小さく風がふるえた。
《レイ=カスタ》の船体が、音もなくそちらに滑る。
舵は動かしていない。推力もない。
ただ、重さを風に預けた――
すると、風がそれに応えた。
「……滑った」
想太の呟きは、誰にも聞かれなかった。
だが確かに、そこに“自由”があった。
風が敵ではない。
空が戦場ではない。
ただ“交わる場所”であるという、この感覚。
「行って――」
イゼルの囁き。
「風は、あなたの“今”を受け止めようとしてる。……その瞬間を見逃さないで。躊躇わずに、行って。変に抗おうとせず、素直に」
わずかに体を左へ傾け、視線を前に置く。
風は、まだ遠かった。
見えてはいるのに、触れられない。
声はするのに、意味が掴めない。
そんな不確かさが、想太の指先に、呼吸に、静かに絡みついていた。
「想太――」
イゼルの声が、そっと背中を押す。
「身体で、風を探して。……操縦桿じゃない。帆じゃない。まずは、“風の居場所”を感じて」
目を閉じた。
耳を澄ます。
空気のざわめき。帆の撓む音。甲板の振動。
それらすべての“隙間”に――風は、潜んでいる。
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、機体の微細な揺れにシンクロしていく。
(……あそこか)
視界の右上――光の密度が微かに違う。
そこに、空が“揺れて”いた。
想太は、そっと体を傾けた。
ほんの数度。肩の角度と、腰のねじれを、風の向きに沿わせる。
すると――帆が、一瞬だけ震えた。
……届いた、か?
だが、すぐに滑る。風は逃げた。
わずかに早すぎた。早ければ、風は踏まれる前に退く。
(……違う)
想太は、今度は遅らせた。
目を伏せ、腹で重さを感じ取り、帆の撓みに合わせて、わずかに――体を預ける。
すると。
風が、返した。
撓んだ帆が、押し返す。
重力が薄れ、船体が“浮いた”。
――風が、彼の重さを受け止めたのだ。
想太の指が、舵に触れないままに確信する。
(今、ここに……いる)
次の瞬間――
機体が、滑った。
右へ。緩やかな斜面を描きながら、風に沿って上昇する。
帆が風に撓み、反応する。
それは“操る”のではない。“許される”という感覚だった。
風が道を示し、想太がそこを通る。
誰にも踏まれたことのない“風の小径”。
その軌跡は、まるで機体が彼に問いかけるようだった――
(これで、いいか?)
想太は答えるように舵に触れず、そのまま身を預けた。
機体が弧を描き、雲の端に沿って滑る。
軌道は詩のように――空へ、風へ、想いへと連なっていた。
滑る。浮く。回る。
どこにもぶつからない。どこにも縛られない。
自分の選んだ角度で、自分の身体が“空を描いている”。
想太の指先が、風に溶けた。
それは確かに、“飛ばされていた”かつての自分とは違っていた。
彼はいま、確かに――空を“飛んで”いた。
掴んでいるという感覚が近いのかもしれない。
なんにせよ、確かな感覚の中に体を預けていた。
「……飛んでる」
その言葉が、震えながら唇から零れた。
風が応えるように帆を鳴らした。
空が彼の存在を受け入れたのだ。
それは、想太にとって初めての領域であり、“宙に触れた”瞬間だった。
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