第20話




イゼルは少し黙った後、小さく頷いた。


「風は待っててもやってこない。大事なのは、風がどこに“立つか”だけ」


「風が…立つ?」


「うん。……風が“独りじゃない”って言ってくれる。無理に飛ぼうとしてはダメ。翼は抗うためにあるわけじゃない。自然と導いてくれるもの。空が“途切れる”場所はないって、ヴァネッサがいつも言ってる」


「途切れる…?」


「全ては繋がってるの。風も、人の心も、今日という時間も。忘れちゃいけないのは、自分がどこに“ある”かを見失わないこと。それが最初のステップ」


その言葉の奥に、確かな“弾力”があった。


イゼルの声色はどこか淡白な印象が含まれていたが、単調なトーンの奥には揺るぎない自信に満ちた力強さがあった。


ヴァネッサが言っていた。


彼女は、元々”風見師(ウィンドセンサー)“の家系の生まれだったと。


風とだけ会話していた少女――

そしてその風の言葉を、誰よりも信じていた少女。


だからこそ「空」と向き合う時の彼女の言葉には、音や表情だけでは測ることができない重みがあった。



午後の陽が傾くころ、訓練空域には翳りが差していた。

浮遊圏の風は、時間によって性質を変える。

朝の風が目覚めの吐息ならば、夕刻の風は記憶をたどる囁きだった。


想太は、《レイ=カスタ》の操縦席に座ったまま、静かに息を整えていた。

その横で、イゼルが地図のような風流図を広げている。


「今日からは、“浮遊軌道”の調整に入る」


イゼルの言葉は澄んでいながら、やはりどこか“空の音”のように涼しく響いた。


「“浮く”って、単純じゃない。……浮くことと、漂うことは違うの」


彼女は示した図に、指先でそっと線を描いた。


風脈層と呼ばれる空の道。

それは決して直線ではなく、ところどころ捻れ、揺れ、重なっている。


「この空域では、風が“引き合って”る。……まるで、手をつないで回るみたいに」


「じゃあ、そこに機体を浮かせるには……」


「手を出すだけ。風の手を握って、一緒に回る。……それだけ」


言葉はやさしいが、技術は難しい。


「浮遊軌道調整」とは、風の交差点に機体を乗せ、その流れに応じて舵と帆を連動させる訓練。

これは機動戦では必須となる初歩的な操作でありながら、空との“感応力”が問われる課題でもあった。


《レイ=カスタ》はゆっくりと、風の輪郭に身を滑らせる。


舵を右に傾ければ、帆が遅れて追随する。

帆の張りが甘ければ、風は逃げていく。

逆に強すぎれば、機体は跳ねるように浮力を失う。


その一瞬一瞬に、想太は身体を研ぎ澄ませていた。


(まるで、風と踊ってるみたいだ……)


ふと、そんな感覚が胸をよぎった。



「……昔、空は怖かったんだ」


そうぽつりと呟いたのは、想太のほうだった。


「俺にとって“空”は、”戦う”ための道だった。爆風の匂いと、焼け焦げた機体。……敵影が現れれば、逃げ場なんてなかった」


イゼルは黙って、想太の言葉を聞いていた。


「でも、今は……違う気がする。

なんていうか……“導いてくれてる”ように感じる。どう言えばいいかわかんないけどさ?昔はもっとこう…フラフラしてたような気がするんだ。俺の技術がなかったっていうのもあるけど、それでも…」


風が機体を支えた。

まるで、その言葉を肯定するかのように優しく。


「君が暴れなければ、空も暴れない。時には強い風が吹くこともあるけど、“委ねる”ことを忘れないで」


イゼルは静かに微笑んだ。


「風はね。いつだって嘘をつかない。その人がどんな過去を持っていても一緒。どんな時も、「人」を選ばない。

…だから、自分に正直になれる。いつだって風は正直だから」


その言葉は、鈴の音のように軽やかに響いた。


想太の胸が静かに熱を帯びる。


彼は再び、帆を調整するダイヤルに指をかけた。



風は、眼に見えぬままに形を変えていく。


それは羽ばたきでもなく、波でもなく――けれど、確かにそこにある“輪郭”だった。


想太の両手はまだぎこちなかった。


舵の感触に頼るあまり、指先はつい強張り、風の流れに逆らってしまう。


それでも、《レイ=カスタ》は沈まなかった。


「……今のは?」


「風が、君を許したの」


イゼルの声は、まるで遠くの波の音のように柔らかだった。


「正確じゃない。でも、正直だった。空は、そういう“手”を見逃さない」


想太はゆっくりと息を吐いた。


額に滲んだ汗が、操縦桿を握る手を少し冷やした。



訓練空域の夕暮れは、音が吸い込まれていくような静けさに満ちていた。


遥か下に見える浮島の輪郭すら、ゆらぎの中で淡くぼやけていた。


その空の中心に、ふたりの機影がある。


イゼルの《バラッド・フォックス》は、ほんの数十メートル先を漂っていた。


帆はひらりと揺れ、風を抱いては解き、また導く。


それはまるで、風と会話をしているかのような飛び方だった。



「想太」


「……ん?」


「“風律”って、なんだと思う?」


唐突な問いだった。


「……風の、法則、みたいなもんか?」


「近いけど、ちょっと違う」


イゼルは少しだけ笑った。


「風律っていうのは、“風の中にある、心のようなもの”」


想太は眉を寄せた。


「心?」


「風はただ流れてるだけじゃない。空には“喜ぶ風”も、“怯える風”も、“迷っている風”もある」


「……おとぎ話みたいだな」


「そう?君もいつかわかるようになると思う。風はいつもそこにあるものだけど、同時に共に“寄り添うもの”でもあるから」


イゼルは、すっと手を前に伸ばした。


彼女の細い指先が、まるで目に見えぬ風をなぞるように宙を滑る。


「風律の深層には“共鳴”がある。自分の心と、風の感情が繋がる瞬間」


「そんなこと……本当に、あるのか?」


「あるよ。少なくとも私は、何度も感じた」


彼女の目は真っすぐだった。


遠い過去の傷を抱えたまま、それでもなお空を選びつづけた瞳。


「今日の風は、君を見てたよ。……きっと、覚えてる」


「……何を?」


「君が、死を覚悟して飛んだ空のこと。

でも、今は違う。“生きるために飛びたい”って思ってる――そのこと」


想太の胸の奥が、ふと揺れた。


それは痛みではなかった。けれど、胸の奥深くで何かが微かに共鳴していた。


彼の手が、再び舵に触れる。


今度は少しだけ指がやわらかく、風に添うように動いた。



《レイ=カスタ》が、静かに軌道を変える。


風の手のひらに乗るように、機体は緩やかに弧を描いた。



風には、重さがある――



イゼルは、そう言った。


「操縦っていうのは、“押すこと”より“預けること”の方がずっと難しい」


想太は舵に手を置いたまま、うっすらと眉を寄せていた。

返す言葉はまだなかった。

というより、彼の中でまだ捉えきれない「感覚」があった。


イゼルの言う“風との共鳴”は、なんとなく捉えられる“線”や色を帯び始めている。

それを確かなものと呼ぶには程遠いが、それでも感じるものがあった。

だが、たとえそれがひとつの形を帯び始めたとしても、飛行をうまくコントロールするには機体の性質を十分に知る必要があった。


機体そのものの“重心”と、——対話。


どうすればバランスを保つことができるか。


どうすれば、機体の中心を捉えることができるか。



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