第19話
帆の緊張がゆるみ、風と帆がひとつになっていく感覚。
それは、かつて味わった「推力」や「出力」とはまるで違った。
重力を打ち破るのではなく、“風に居場所を借りる”ような滑空。
その一体感の中、想太はぽつりとつぶやいた。
「……この前見た時に思ったんだ。“あんな風に飛んでみたいって”」
「この前?」
「“模擬空戦”の時の飛行。…すげぇなって思ってさ」
「みんな最初は君と同じ。最初から飛べる人は誰もいない」
「…いや、そうなんだろうけどさ。その…なんていうか…」
想太が言葉に詰まったのは、あの日観た空の情景が、自分の中にある“知らない感情“を呼び覚ましていたからだ。
“あんな風に飛びたい”
その言葉の真意にあるのは、ただまっすぐな感情だった。
汚れたものが何もなく、濁った「色」がひとつとして混ざっていない。
感情と感情の切れ間に潤うように縫い合わされていく結び目。
そして、——流れ。
シワが寄っていたものが、少しずつ伸ばされていくような開放感があった。
突き抜けていく爽快感があった。
喉の奥を。
——空の果てを。
その時はわからなかった。
目で追いかけることしかできなかった。
得体の知れない感情に振り回されたまま、瞬きをするタイミングも見つからなかった。
子供じみた安直な気持ちが、そのまま言葉になって現れていた。
”飛びたい”
“自由に駆け回ってみたい”
ただ、それだけを。
「知らなかったんだ。多分、…そんな感覚」
「知らない…?」
「まるで鳥みたいだった。自由に翼を広げて、好きなように宙を舞ってて」
“イゼルは特にすごかった”。
彼はそう言いながら、あの時の興奮を思い出していた。
一人一人の“飛び方”が違った。
強く頑丈な「重さ」を引く飛空艇もあれば、軽やかなステップを踏む飛空艇もあった。
どれもが色とりどりで、“豊か”だった。
その中でも特に目を引いたのは、他でもないイゼルの飛行だった。
「…そう?あの日は、普通に飛んでただけ」
「普通にって笑。…あんなの、俺には真似できないぞ?」
「難しく考えないほうがいい。ヴァネッサがいつも言ってる。風に抗っちゃダメだって。体を預けるように、“信じるだけだ”って」
「…でも、やっぱり技術も多少は必要だろ?」
「君が言う“技術”が何を指すのかはわからない。私はただ、…身を任せただけ」
イゼルは困惑したように言葉を返した。
彼女自身、ヴァネッサからいつも教わっていることがあった。
その「教え」は、彼女の“飛び方”そのものに関わる姿勢や性格に余すことなく反映されていた。
…いや、正しくは、彼女の生き方そのものに根ざしているものだった。
ヴァネッサに拾われた時からそうだ。
彼女は飛空艇に“乗っている”という感覚を持ったことは一度もない。
ましてや、飛空艇を操るという視点で操縦桿を握ったことはない。
乗るのではなく、“知る”。
その感覚は彼女にしかわからないことだったが、同時に、彼女にとっては当たり前の考え方だった。
風が結ぶ方向。翼が傾く場所。
何もかも、——初めて「空」を知った時から。
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