第17話
魔導炉の出力が、ひときわ柔らかく高まり、《レイ=カスタ》の浮力帆がそっと展開を始める。
白い帆が空に触れた瞬間、わずかに機体が持ち上がった。
それはまだ「飛行」ではなかった。
ただ、“風に触れた”だけ――
けれどその一瞬の「接続」が、想太の中の何かを確かに目覚めさせていた。
——風は、確かに、そこにいた。
それは声ではなく、温度でもなく、ただひとつの“在り方”として――
彼の指の先、魂の底で、静かに触れ合っていた。
空はまだ手の届くところにあった。
《レイ=カスタ》の船体がわずかに持ち上がる――
それは大地を離れる瞬間ではなく、「風に抱かれる」ための準備だった。
「……行こう」
イゼルが静かに告げた。
その言葉は合図ではなく、むしろ“許し”のように響いた。
想太は操縦桿を握る。
いや、“触れる”――というべきだった。
指先に風の皮膚のような、しなやかな抵抗があった。
「舵、微前進。帆角、維持」
「うん。いま、風が“上げて”る。……ゆっくり、あずけて」
帆は静かに展開される。
浮力帆が風を掴み、推進帆がまだ閉じたまま“そこに在る”ということだけを示している。
地上では聞こえなかった音――
浮かぶことで、風が音になる。
鼓膜に届く“振動”ではなく、骨伝導のように機体を通じて響く“声”。
「……離れた」
想太がつぶやいた。
それは揺れでも、振動でもなかった。
ただ、「足元に何もなくなった」という感覚だった。
それまで支えていた硬さが消え、かわりに柔らかく、弾力のある“見えない地面”が彼を受け止めていた。
「それが“空の縁”」
イゼルが言った。
「地面の上には、空はない。でも、空の中にも地面はない。……ただ、“縁”だけがあるの」
ほんの少しだけ舵を倒した。
それに応えるように、機体が右へとわずかに旋回する。
操舵の感覚は戦時中の零戦とはまるで異なっていた。
あれは「意志を閉じ込める機械」だった。
軽やかな機体の柔軟さを持ちながら、金属の芯を閉じ込めたような硬さがある。
一度飛び立てば、地上に戻ることは許されない“舵の重さ“。
だが、《レイ=カスタ》は違う。
軽く、——しなやかだ。
それでいて手の中に触れる感触が、水の中を調べるときのような滑らかさがあった。
かき混ぜることも、泡立たせることもできる。
そんな予感の中にさざめく豊かな流れ。
倒すことも引くことも、意のままにできるという”感触”だった。
だが同時に、自分の意思だけではどうにもできない「淡白さ」さえあった。
「風の合意」がなければ、指先に触れる舵はただの飾りに過ぎない。
「……すごいな、これ」
「どこが?」
「すごく“静か”なんだ。飛んでるのに……全然、音がしない」
イゼルは少しだけ考えてから答えた。
「風は静かなままでいいんだよ。騒がしくするのは、人間のほう」
旋回が終わり、機体はふたたび真っすぐ進む。
《レイ=カスタ》の船体はもはや完全に浮いていた。
高度はわずか五メートルほど。
しかしその五メートルは、想太にとっては明確な「高さ」があった。
自らの中にある感覚を呼び覚ましながら、自分の知らない感覚を足元から持ち上げてくる。
重力から解き放たれるような感覚。
感じたこともない視線と、浮遊感。
その「高さ」は、“過去”と“今”を隔てるには十分な距離だった。
ヴァネッサに教えられて機体を浮かせた先日もそうだったが、想太は改めて感じていた。
空に浮き上がるときの、確かな”時間“と変遷を。
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