第16話



空は、まだ朝の白さを残していた。


青くもなく、灰くもなく、ただ光に濡れた絹のような空。

その下、浮遊艦 《レヴァン・ノード》の甲板では、風が音もなく帆の間をすり抜けていった。


《レイ=カスタ》の艦影は、まだ微かに揺れていた。

浮力帆は収納されたまま、機体は訓練用の係留ロープで静かに固定されている。


想太は、機体の傍に立っていた。

その横には、変わらず淡い風をまとうような佇まいの少女――イゼル・ルーシェ。


「……風は、“乗る”ものではないの」


朝露に濡れた甲板の反射光が、彼女の長い睫毛にきらめきを映していた。


「まず、“整える”の。自分を。空を。機体を。……それが最初の一歩」


彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、機体の側板に触れた。


その指はごく自然にパネルを開き、魔導接合の基部を示した。


「今日から、“操作基本訓練”を始める。……飛ぶためじゃない。“飛ぶ準備”をするために」


想太は黙って頷いた。



「飛空艇は、生き物に似てる。帆は翼で、炉は心臓。制御環は“神経”……だけど、一番大事なのは、どこだと思う?」


イゼルはそう問いながら、ひとつの部品を指差した。


それは、舵でも、炉でもない。

想太が普段、あまり気に留めていなかった――機体前部、操縦席の“座標感応台”。


「それは、“あなたの位置”を空に伝える場所。

……空の中で、あなたが“どこにいるか”を機体が知るための、大切な座標」


彼女の説明は静かだったが、一語一語が風のように耳に残った。


魔導炉の圧力調整。

帆材と展帆角の関係。

制御環と昇降舵の反応遅延。

風脈による微振動の伝達経路。


すべては、ただ機体を“動かす”ための知識ではなかった。


それは、「空と共に在るための言語」だった。


「……覚えることは多いけど、焦らないで」


イゼルはゆっくりと想太の前に回り込むと、指先で機体の縁をなぞった。


「“この子”はあなたの心を感じ取る。……あなたが、風を疑えば、機体も揺れる。あなたが空を恐れれば、帆も開かない」


そして、静かに微笑んだ。


「でも、あなたが“飛びたい”と思えば……この子は、風の名を呼んでくれる」


機体の魔導炉が、かすかに音を変えた。


想太は目を閉じる。

機体の震え。風の匂い。帆の静けさ。

そして、自分の中にある――まだ言葉にならない“想い”。


それらすべてが、ゆっくりと“ひとつの音”に向かって収束していく。


《操作基本訓練》――


空に触れるための第一歩。

その始まりは、決して風を“追う”ことではなかった。


風がいる場所に、そっと“在る”こと。

それが、飛空士への扉だった。



空は、深く、そして穏やかだった。


薄曇りの光が雲の縁をなぞり、帆柱の影が甲板に長く伸びていた。


「操作系統、再確認」


イゼルの声は、まるで霧の上を滑る風のように静かだった。


「操縦桿は、前進後退・左右旋回・上下軸のバランス調整。……けれど、“握る”んじゃなく“触れる”こと。風に逆らわないように」


想太は頷いた。

この説明は、ヴァネッサからも何度か聞いていた。


だが――

イゼルの口から語られると、同じ言葉であっても、それはどこか“違う音色”と“質感”を持って響いた。


「左側のスライダーは推進帆の展開圧。右は浮力帆の角度調整。……でも、どちらも“速度”ではなく、“波”を読むための道具」


指差しながら、彼女は手のひらでパネルを撫でる。


「急に動かせば風は“びっくりする”。……ゆっくりと、“呼吸を合わせるように”」


《レイ=カスタ》の魔導炉が、淡く脈動を始めた。


微細な振動が船体を通して伝わってくる。

それはまるで、機体が「ここにいるよ」と語りかけてくるようだった。


「魔導炉起動。圧制御値、0.15。……上限にはまだ遠い」


イゼルが目を細めながら、耳ではなく“肌”で数値を感じているのが、想太には分かった。


「次に……舵」


イゼルは、操縦席に片膝を掛け、想太の手をそっと取り、操縦桿の根元へ導いた。


「手のひら全体を、舵に預けて……」


彼女の指先が、想太の指へ、優しく重なる。


「“風の重さ”を感じるの。……動かすんじゃなく、たずねるの。“そこにいますか”って」


風の音は、ない。


けれど、甲板の帆がわずかに揺れた。


それは機体が風を受け、呼吸を始めた合図だった。


「今、風が“頷いた”。――わかる?」


イゼルの言葉に、想太は答えられなかった。


だが、何かが確かに、心の奥で応えていた。


「じゃあ……今日は、“立ち上がる”ところまで。離陸はまだしない。空に上がる前に、“風の地面”を感じる」


イゼルはそう言って自らの席に戻ると、横にある計測板を開いた。


「舵、前。展帆角を10。推進帆はまだ閉じたまま――」


「了解」


想太の声は自然に出た。


声にして初めて気づく。


自分の内側の静けさや、——繊細な鼓動。


「風はいないようで、いる」


「……?」


「ここにも。あなたの肩にも。指の先にも。……でも、探そうとすると、逃げるの」


想太は笑った。


「……まるで猫みたいだな」


イゼルは、少しだけ微笑んだ。

その笑みは、風のない日にも帆が揺れるようなまどろみを含んだまま、揺れる空気の中にほのかな余韻を残した。

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