第14話



街の灯はゆっくりと減っていき、セレスタリアの空は深い群青に沈み込んでいた。


風庵亭を出た三人は、坂の上にある小広場でひと息ついていた。

眼下には、浮遊圏の空を背景にした街の灯が静かにまたたき、遠くの空には、星々の光が散りばめられていた。


ヴァネッサは、手すりに肘をかけて風を感じていた。

イゼルは少し離れた場所に立ち、夜風の気配を受け取るように目を閉じている。


そして、想太は――空を見上げていた。


「……なあ、想太」


唐突に、ヴァネッサが声をかけた。


「今日の模擬空戦。お前、何を思った?」


想太は、その問いにすぐには答えなかった。

夜空の奥を、何かを探すようにじっと見つめていた。


「綺麗だった……ただ、それだけじゃなかった」


ようやく絞り出すように言葉を発すると、その声には微かな震えがあった。


「空に生きる奴らが、風と向き合って、ぶつかり合って――でも争ってるわけじゃない。

まるで鳥みたいだった。……多分、そんな感じ?」


ヴァネッサは頷く。


「じゃあ、どうする?」


「……何が?」


「飛びたいのか?」


その一言が、想太の胸を静かに突いた。


「飛びたいと思っただろ?……少なくとも、“あの空”を見て、何も思わなかったとは言わせねぇよ」


想太は言葉に詰まった。


あの時、甲板に立って、模擬空戦を見上げたとき。

その胸に宿った熱、心を突き動かした衝動――それは確かにあった。


(……俺も、あの中にいたい)


その感情は、今も想太の中に残っていた。

だが、その想いの輪郭はまだ定まっていなかった。


「……怖いんだ」


ぽつりと漏れたその言葉に、ヴァネッサがわずかに目を細める。


「何が?」


「“また”飛ぶってことが。……あの空に、自分の命を預けることが。

それがもし、前と同じように、何かを“壊すため”の飛行になったら……」


想太の胸の内にあったのは、「飛ぶ」ということへの純粋な迷いだった。


いつだってそうだった。


戦うために飛ぶことを選んだ。


先が見えなかった空。——その向こうへと、いつも手を伸ばしていたかった。


零戦は彼にとって「翼」でもあり、見えない「敵」でもあった。


覚悟していたつもりだったのだ。


操縦桿を握り、エンジンを点火するまでは。


なぜ飛ぶことを選んだのかわからなくなる自分がいた。


今までやってきたことが全部間違いだったんじゃないのかと、騒ぎ立てる心があった。


「飛び」たい。けど——飛べない。


月明かりが微睡む水面のように、はっきりしない輪郭がある。


真っ直ぐ定めることができない視線がある。


それをどう言葉で表現すればいいのかもわからなかった。


ただ、“怖い”というしか…


「違うさ」


ヴァネッサの声は、はっきりとしていた。


「あんたがどんな境遇で生きてきたのかは知らない。あの飛空艇が、どんな“役目”を持っていたのかも。だが、少なくとも、あんたはもう兵器じゃない。誰かに命令されて飛ぶ必要はない。……今度は、自分の意思で飛べばいい」


「……自分の意思、か」


想太は、その言葉を噛み締めるように繰り返した。


それは簡単なようでいて、恐ろしく難しいことだった。


自分の意志で“生きるために”飛ぶ。

それは、かつての自分を否定することにもなる。


けれど――


「……あんな風に飛べたらいいって……思ったのは、本当だ」


その声はかすかに震えていたが、嘘ではなかった。


「でも……まだ答えは出ない。怖いんだよ。

この空が美しいって思えば思うほど、今自分が立っている場所がわからなくなるっていうか……」


風が、そっと吹いた。


イゼルが、目を閉じたまま静かに口を開く。


「……それでいいと思う」


想太が顔を上げると、イゼルの横顔が星明かりに照らされていた。


「迷うってことは、“風を感じてる”ってこと。感じた風に、どう応えるか……それは、時間が教えてくれる」


ヴァネッサは、少し笑った。


「そうだな。風は、背中を押すだけだ。進むかどうかは、自分で決めろ」


想太は、深く息を吸い込んだ。


夜の空気は冷たく、だがどこか柔らかかった。


「……もう少し、考えてもいいか?」


「好きにしろ」


ヴァネッサはそう言って、ぽんと想太の肩を叩いた。


「でも、お前がその気になったら、あの《レイ=カスタ》……すぐ飛ばせるように整備してやる。いつでも乗れるようにな」


「……ああ。ありがとう」


その言葉の奥には、確かな決意が芽生え始めていた。


まだ名前のない、でも確かに“飛ぶこと”へ向かう意志。


夜の空は、ゆっくりと星を増やしていた。


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