第13話
店内の喧騒は、少しずつ遠ざかっていた。
香ばしい皿の香りと、木の器が擦れる小さな音。
けれど想太の心は、すでに“別の空”を見ていた。
「……えっと」
その声は、どこか遠くを見つめるような静かな調子だった。
「生まれは、東京の下町。墨田川のそばでさ。橋が見える家だった。……1926年、昭和元年」
ヴァネッサが反応しそうになるのを、彼は片手で制した。
「わかってる。年号も地名も、わかんないんだよな?……だからとりあえず、ただの“記憶の風景”として聞いてくれればいい」
ジョッキの麦酒が、静かに揺れた。
「……その頃の東京は、商店街があって、工場があって……。路地裏にはいつも誰かの声があった。喧嘩もしてたけど、どこか温かくて……風がよく通る街だった」
語りながら、想太はふと微笑んでいた。
その目には、遠い記憶の陽だまりが差していた。
「父は軍人だった。昭和の初めに支那派遣軍として大陸へ渡ったきり、帰ってこなかった。兄貴も後を追うように出征して……それで、家に残されたのは、母と弟と、俺だけだった」
「ふうん……」
ヴァネッサはグラスを口に運びながらも、興味深そうに耳を傾けていた。
イゼルは黙ったままだったが、その手が食事の手を止めているのに気づいた。
「母は、……よく働く人だった。小さな和裁屋で、仕立ての仕事をしてた。弟は俺より四つ下で、よく喧嘩してたっけな。……風呂も薪で焚いて、井戸水で冷やす夏。炭団(たどん)で暖をとる冬。……今思えば、あれが“日常”だった」
いつの間にか、二人は黙って聞いていた。
その表情には揶揄も驚きもなく、ただ“向き合う者”としての誠実さがあった。
「……物がなかった。食べるものも、遊ぶものも、いつも不足してた。けど、不思議と寂しいとは思わなかったんだ。あの頃の東京は、みんなが“風に逆らって生きてる”感じがしてさ」
想太は、指先で碗を撫でた。
「俺が“空”に惹かれたのは、小学の頃だった。古い木造の校舎で、教室の天井に扇風機がぶら下がってた。……ある夏の日、校庭に見たんだ。――青い空を、音もなくすべるように通り過ぎた、複葉機の影を」
その声に、どこか熱が帯びる。
「空っていうのは……俺にとって、“見上げる場所”だったんだ。父も兄貴も、空の彼方へ行って帰ってこなかった。その空に、“手が届く”と思った瞬間――俺の中で何かが変わった気がした」
ヴァネッサが、ふっと息を吐いた。
「……家族のためか?」
「いや。最初は、ただの憧れだった。あのとき、俺は地べたに足をつけたまま、空の向こうに“理由のない希望”を見た。……それが、最初に“飛びたい”と思った瞬間だったと思う」
想太の視線は、店の小さな風穴の方へ向かっていた。
そこから、わずかに夜風が流れ込んでいる。
「戦争は……日常に、少しずつ“濃くなって”きた。最初は旗が増えた。次に、誰かがいなくなった。女と子どもだけが残り、やがて……空襲警報が鳴るようになった。
空が……音を持ち始めたんだ」
その声には、微かな震えがあった。
「最初は憧れだった空が、やがて爆音と火の雨を落とすようになった。空を見上げれば、飛行機が見える。けれど、それは“誰かが死ぬ合図”でもあった」
イゼルはグラスの縁にそっと指をかけ、何も言わずに耳を傾けている。
「だから、飛行機に乗りたいと思った。……ただし、“操縦する側”として。空を“奪われたくない”と思った。子どもの浅はかな、抵抗心だったのかもしれないけど」
沈黙が、数秒だけ流れた。
「陸軍航空士官学校に行ったのは、その延長だった。東京を離れ、神奈川の基地へ。そこには――もう、“空を憧れる”気持ちはなかった。……ただ、“戦う“ことだけが頭にあってさ…」
風が、卓の端に置かれた紙ナプキンをふわりと揺らす。
想太の語りは、そこから先を語ることをためらうように止まりかけた。
「……でも、その話はまた今度でいいか。少し……疲れた」
ヴァネッサは、何も言わなかった。
ただ、そっとグラスを傾け、イゼルは軽く頷いただけだった。
その夜、風は優しく、三人の沈黙を包んでいた。
――風の記憶は、まだ語られるべき過去の“入口”にすぎなかった。
想太の語りは、少しの間だけ静かに途切れていた。
だが、その沈黙は“終わり”ではなく、“次の扉”を開くためのわずかな間だった。
「……神奈川の厚木。そこに、陸軍航空士官学校の分校があった」
ヴァネッサとイゼルは、静かに耳を傾けていた。
「当時は、戦況が悪化してた。士官候補生の養成は“量産”に近い形になっていた。年齢も学力も関係ない。適性試験に通れば、あとは“空を飛ばす兵器”として育てるだけ」
想太の声に、わずかに苦味が滲んでいた。
「朝は起床ラッパで叩き起こされて、飯は黍(きび)と雑炊。教練、座学、操縦訓練、そして軍規。失敗すれば体罰。怠ければ脱落。
……生き残るために飛ぶんじゃない。“死に場所を選ぶために飛ぶ”ってのが、ある意味俺たちの中での“常識”だった。
でも……不思議と、仲間はいた」
その言葉は、想太の胸の奥から掬い取られたもののように静かで、確かだった。
「同じ部屋で寝泊まりしてたのが、藤木、斉藤、根岸……みんな俺と同じ歳か、少し上で、気のいい奴ばかりだった」
想太の表情に、微かな笑みが浮かんだ。
語るたびに、記憶が頭の奥から浮かび上がってくる。
「夜になると、外出はできないから、よく布団の中で話をしてた。将来の夢とか、家族の話とか。……ああ、そうだ。斉藤がよく言ってた。“終戦したら、ラーメン屋を開くんだ”って」
ヴァネッサが小さく目を細めた。
「そのサイトーって奴、飛行は?」
「上手かったよ。俺よりもずっと。……でも、訓練の途中で事故を起こして、落ちた。山間の演習空域だった。……遺体は、戻ってこなかった」
店内の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
想太は箸を置き、麦酒を少しだけ口に含む。
その苦味が、過去の味と混じるようだった。
「空ってやつは、…いつだって容赦しない。技術も体力も、それだけじゃ駄目なんだ。
……けど、それでも俺は飛びたかった。……そう思ったのは、たぶん、初めて“操縦桿を握った日”だった」
想太の指がグラスの縁をなぞる。
彼の目が、遠い記憶を辿るように細くなった。
「教官の横で、体をこわばらせながら、初めて風に触れた。加速する機体の音、回転するプロペラの先にある、無重力の感覚。……その瞬間だけ、俺は“生きてる”って思えた。
それが――俺にとっての“空”だった」
イゼルが、そっと目を伏せた。
「けれど、それは長くは続かなかった。
“特別飛行指令”が出たんだ。いわゆる“特攻作戦”だ」
ヴァネッサの指が、カップの縁を止めた。
「それに志願した?」
「……そうするしかなかった。……いや、本当は違う。あの時、本当は選べたはずだった。自分でもわかんないんだ。どうして“飛びたい”と思ったのか」
声のトーンが、わずかに落ち着いた。
風穴からひゅうと小さな風が店内を撫でていった。
想太はグラスの中身を見つめながら、静かに言った。
「飛ぶことに、意味なんてなかった。守るものも、守れるものもなかった。ただ、命令があって、俺はそれに従っただけだった」
「……だから、こっちに来た時は、驚いたよ。空が生きてて、風が言葉を持ってて、機体が舞い、……戦わなくても“空に居られる”世界があるなんて――夢にも思わなかった」
ヴァネッサが、そっと問いかけた。
「……後悔してるか?」
想太は、少しだけ間をおいて、ゆっくり首を横に振った。
「後悔はしてない。……ただ、“逃げたい“とは思ってた。情けない話だけど、もう少し”生きたい”とは思ってたんだ。今こうして自分が立ってるのが、不思議なくらいにさ?」
その声は誰に向けたでもない。
けれど確かに、風に向けた祈りのようだった。
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