帰る場所の輪郭

講堂の空気は、ひどく静かだった。

誰も口をきかず、工具の音すら遠慮しているような午前。


佐久間真弓は、湘が出ていった扉を何度も無意識に見ていた。

時計代わりのラジオが壊れてから、時間の感覚はとても曖昧になった。


それでも、三時間が過ぎたことは、体が知っていた。

手元の作業がどんどん雑になっていく。

いつもなら整える包帯の角も、今日は丸く折れている。


何かが胸に詰まって、深く呼吸することさえ難しかった。


ふと、誰かが扉の外で立ち止まる気配がした。

わずかな衣擦れの音、擦り切れた靴が床をかくかすれた音。


真弓は、その音だけでわかった。


「……湘ちゃん?」


振り向くと、そこに立っていたのは、泥まみれの湘だった。

左肩には擦り傷。手には、風呂敷のように布で巻いた薬品の包み。


無言のまま、ふたりの目が合う。

その瞬間、真弓の肩から一気に何かが崩れ落ちた。


「……よかった。ほんとに、よかった……」


足が勝手に動いた。

歩くのではなく、滑るように近づいて、彼の胸元に体を押し付けた。


湘は何も言わず、その体をしっかりと受け止めた。

お互いに言葉はなかったが、それは“十分すぎる”という意味だった。


真弓の耳元で、湘がぽつりと呟く。


「間に合った。……帰ってこられた」


「違うよ。……帰ってきたんじゃなくて、ちゃんと戻ってきてくれたんだよ」


そう言った真弓の声は、泣いていないのに涙の跡があるような響きだった。


湘の手が、彼女の背に回る。


「薬は、少しだけど取れた。でも、……たぶん、それより大事なのは」


彼は言いかけて、やめた。


真弓が小さく笑った。


「わかってる。……あたしも、それが一番必要だった」


薬じゃなくて、“無事”という証拠。

腕の温度、声の震え、傷のにおい、汚れた服の質感。


全部が、生きて帰ってきたという“証”だった。


湘はふと、ポケットから小さな錆びた鍵を取り出して、真弓に見せた。


「……これ。使わずにすんだ」


真弓は黙って受け取り、握りしめた。


「……もう、絶対使わないで。約束」


湘は頷き、そのまま彼女を強く抱きしめた。

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