静かなところにいる人
「……それでね、そこの担当者がさ、配給数を三倍に書いてて。もう、笑うしかないわけよ」
神谷 翼は笑いながらそう言った。
湘 健之は、肩の力を抜いたまま黙って聞いていた。
会話の内容はどうでもよかった。
けれど、『誰かと話している』という実感が、彼にとってはめずらしく心地よかった。
「で、結局それをどう処理したの?」
「仕方ないから、『数字は信用しない』って方針にしたの。つまり、現物だけで判断するってこと」
「合理的だね。……君らしい」
神谷はふっと笑った。
その笑いには、『読み取ってもらえた』ときの安心がにじんでいた。
湘はそれを、『楽』だと思った。
真弓との会話のように、言葉に感情を乗せる必要がなかった。
ただ、意味だけが行き来していた。
それが、今の彼には負担が少なかった。
けれど、講堂に戻ったとき。
佐久間真弓が、何も言わずに箱を運んでいる姿を見て、湘は少しだけ立ち止まった。
彼女はいつものように、雑なようで丁寧な動きだった。
でも、声はかけてこなかった。
ちらりと目が合ったが、すぐに逸らされた。
(……昨日までなら、何か言ってきた)
その『なにか』がなかったことに、湘は軽い引っかかりを覚えた。
「……佐久間さん、手伝おうか」
思わず口に出た。
真弓は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「いいよ。できるから」
それだけ言って、背を向けた。
湘は、返す言葉が見つからなかった。
神谷との会話は、確かに安心だった。
けれど、真弓との会話にあった『どこか揺れる感じ』が、そこにはなかった。
(楽だけど、安心しすぎてるのかもしれない)
そんな思いが、湘の中で言葉にならずに留まっていた。
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