言わないままでいるもの
午後の講堂。
物資の整理が終わり、空気が緩やかに漂っていた。
佐久間真弓は、チェックリストの数値を指でなぞっていた。
目は数字を追っていたが、思考はそこになかった。
──神谷と湘が、一緒に歩いていたのを見たのは、昼前だった。
ふたりとも、何気ない顔をしていた。
会話の内容までは聞こえなかったけれど、距離感が穏やかに整っていたのはわかった。
真弓は、それに対して、何も言わなかった。
誰かに話すことも、湘に確認することもなく、ただリストの文字を見つめていた。
(別に、いいんだけどな)
そう思った。
けれど、その『いいんだけど』のあとに続く何かが、胸の中で静かに膨らんでいた。
休憩中、真弓は自販機の横でコーヒー缶を開けた。
ちょうどそのとき、神谷が近くを通った。
「お疲れさま。……今日、調子どう?」
「うん。まあまあ」
真弓は返した。それだけ。
目は合わせなかった。
神谷は少しだけ足を止め、それから去っていった。
その背中を見ながら、真弓は無意識に缶を強く握っていた。
(なんだろう、これ)
神谷のことを嫌いなわけじゃない。
むしろ、避難所での冷静な調整力には何度も助けられていた。
でも、『あの人と湘が並んでいる姿』には、どうしようもなく胸がざわついた。
(わたしは、あの人に何を求めてるんだろう)
問いは、言葉にならないままだった。
ただ、湘の視線が最近少しだけ変わってきていること、
誰かを見る目になってきていることに、真弓は気づいていた。
そして、それが『自分に向いていない時間』が増えてきたことにも、気づいていた。
言いたいことは、まだ何もなかった。
けれど、沈黙の中に芽生えた感情だけが、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
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