その一瞬だけは
倉庫の隅で、何かが倒れる音がした。
カシャン。
金属が軋み、重たい何かが軋んだような鈍い衝撃。
湘 健之が帳簿を閉じたのと、立ち上がったのはほぼ同時だった。
「音……棚のとこだ。誰か……」
言い切る前に、足が動いていた。
一秒後、佐久間真弓の声が背後で追いかけてくる。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
湘は講堂の端を走った。瞬間的に、光と音の位置を脳内で組み立てていた。人影。倒れたパイプ椅子。床に散らばるガラスの破片。
そこには、中年の男性職員が腰を打ちつけて座り込んでいた。
顔は蒼白。崩れた棚の支柱が、肩をかすめていた。
「動かないで。……大丈夫、出血はない。でも、たぶん筋。湿布、固定」
声は自動的に出た。言葉より先に、状況の“処理”が脳内で行われていた。
「君、そこの毛布。あと、あの箱の上。輪ゴムと……いや、布でもいい」
「う、うん!」
真弓が走る。足音がたどたどしく、でも必死で。湘は体をかがめて男性の肩に手を置いた。震えているのがわかる。
「……びっくり、したよ……お、お前、走ったな……」
「……うん。走った。なんか、勝手に動いた」
「いつも、のろのろしてるのに……」
湘は黙って、布を手に取った。
真弓が戻ってきて、少し乱れた息で毛布を差し出す。
「これでいい? あと、なんか他に……」
「もういい。助かった。君、うるさいけど……ちゃんと速い」
「褒めてんの? それ」
「わからない。でも……ありがとう」
真弓が少し目を丸くした。そして、それを冗談に変えるように、顔をそらした。
「……なんか、すごいね。あんた。無感情に見えて、いざってとき、動くんだ」
湘は手を止めた。
「無感情じゃない。ただ……うまく、出せないだけ」
「それ、誰に?」
「……全部に。自分にも、かも」
真弓は何も言わなかった。ただ、一歩だけ近づいて、かがんで、棚の支柱に触れた。
指先で冷たさを感じながら、小さくつぶやいた。
「……痛み、って。出せないと、もっと痛いんだね」
湘は、返事をしなかった。
その一瞬だけは、彼の目が確かに“ここに”あった。
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