記録できないもの
翌朝の風は、生ぬるかった。
どこか腐った雨の匂いが混じっていて、湘 健之は思わず鼻を手で覆った。
空は曇天。濁った光が、避難所の廊下をじわじわと這っていた。
朝の点呼。名簿を手に、声を張る人間が少しだけ音を重ねる。
湘はその輪から外れて、教室の隅にいた。今日の食材、配給数、予備。全部、頭に入っている。忘れたことは一度もない。
「……あんた、ほんとにここに“いない”感じするよね」
声がした。佐久間真弓だった。手には配膳トレイ。右手だけで持って、左手はポケットに突っ込んでいた。
「“いない”って、どういう意味」
「いや、なんかこう……目が、ここにない感じ。魂置いてきたの?」
「……魂の居場所なんか、知らない。置いてきた記憶もない」
「あ、でもちょっと笑ったね。いま」
「笑ってない。口元が動いただけ。……たぶん」
真弓がトレイを机に置いて、壁にもたれた。
「昨日さ。子どもの話、してたでしょ」
「……ああ」
「今、その子は?」
湘は答えなかった。視線は、床のひび割れに落ちていた。
「……生きてる。でも、別の場所にいる。あれ以来、接触はない」
「会ってないの?」
「会える立場じゃない。向こうの親が、僕に関わるなって」
真弓が少し息を吸い、何か言いかけて、それを飲み込んだ。
代わりに、彼女は別の問いをぶつけた。
「じゃあさ。あんた、自分が“悪い”と思ってんの?」
その言葉は、湘にとって少し“正しすぎた”。
「……僕は、“ミスした”とは思ってる。“悪い”っていう言葉には……意味が多すぎる」
「意味が多すぎる?」
「そう。“悪い”って、誰の視点かによるし。子どもはつらかった。それは、事実。でも、僕が“悪い人間”かは、たぶん……わからない」
真弓がゆっくり頷いた。やけに静かな間。
「そういうの、ちゃんと言葉にする人、あんまりいないよ。……ちょっと、ズルい」
「……ズルいのは、そっちだよ」
「え? なにが?」
「そういうふうに、ちゃんと“感じてるような”顔、するの。こっちが、言いすぎた気になる」
真弓は驚いた顔で、それから笑った。
「……そっか。気をつける」
湘は視線を戻した。ひび割れの床の線が、どこかで誰かの記憶とつながっているような、そんな気がした。
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