Eli, Eli, lema Sabachthani? - 2

 そっと扉を開けると、黒いひもが連なったのれんと、甘ったるいお香のにおいに迎えられた。

 かくして、のれんをくぐって覗いた店内。

 真っ先に目に入ったのは、店内の壁一面を覆うように連なる本棚に、びっしりとおさめられた本。古書も混じっているのか、古い紙の匂いがする。ぱっと見ただけでも、日本語のものも外国語のものも入り混じっている。それから、本棚と本棚のあわいに設置された熱帯魚の水槽。なにやら美しい青色の魚がひらひらと水中を泳いでいる。

 天井から吊り下げられたペンダントライトたちは、淡い暖色の明かりを生み出して、店内を儚げに照らし出している。店内のいちばん奥の壁にかけられたタペストリーや時計、調度品の数々は、どこかオリエンタルで情緒あふれていた。

 人の気配はない。けれど、店主がいつも仕事をこなしているのだろう机の上には、飲みかけのお茶と、なにやら書きかけのノートが拡げられて、万年筆が転がっている。

 仕事用と思われる机の後ろには、引き出しがたくさんついた棚が置かれて、その上で喫茶店にあるようなドリップポットが湯気を立てている。

 店主の席の向かいに設置された革張りのソファとローテーブルは来店客用だろうか。わからない。

 そもそも、この店はなにをする店なんだろう。

 情緒不安定を買い取るって、なに。

 七生はどうしたものかと考える。やはり店を出てしまおうか。でも、せっかく勇気を出して踏み込んだのに?

 水槽の循環ポンプの音と、時計の秒針。そうして自分が身じろぎをする気配だけが、いまこの店内に響いている。

 店の奥に、のれんがかかった別空間がある。

「……、あの、どなたかいらっしゃいますか?」

 控えめにかけた声。けれどいくら待ってみても、静寂が返ってくるばかりだった。

 もしかしたら、店主は不在にしているのかもしれない。そのわりには戸締りもなく、不用心だけれど。

 なんだか脱力してしまって、七生はやはり家に帰ろうと考える。惨めな夜は、とことん惨めなものだ。ささやかに好奇心をそそられた店でさえ、こうしてタイミングが悪い。

 そうだ、わたしの人生はいつだってタイミングが悪い。

 視界の端、水槽の中でひらめく熱帯魚が目を引く。長い尾とひれがドレスのようで綺麗だ。金魚のようにも思えるけれど、青い金魚なんて見たことがない。きっとなにか、わたしの知らない魚なんだろう。

 七生は息を吐いて、店を出ようとする――。

「何か、お困りですか?」

「!!」

 突然背後から浴びせられた声に、七生は心臓が口から出そうになるくらい驚いた。

 反射的に振り返ると、なにやら不健康そうな顔色の男性が、にこにことこちらを見下ろしていた。

 背が、高い。

「ああ、驚かせてしまいましたか? ミシマに夢中でしたから」

「ミシマ?」

「その金魚の名前ですよ」

「金魚、」

 ばくばくと心臓が鳴っていて、店主の言葉をオウム返しにすることしかできない。けれど店主はどこまでも穏やかそうに笑うばかりだ。

 長身痩躯。黒い詰襟のシャツに、黒いスラックス。サスペンダー。よく磨かれた革靴。ストイックで神経質そうないでたち。

 青白い肌。黒い髪に、揃いの黒い瞳は黒曜石のようだ。長い前髪のせいで、右目が見えない。けれどこちらを見下ろす左目は、どこか緑とも紫ともつかないような、不可思議な光彩を孕んでいる。

 すっきりと整った容姿。

 そのくせすこし不気味で、浮世離れした美貌の生き物。

 何百年も生きていると言われたなら、信じてしまうかもしれない。

「…………、青い金魚は、初めて見ました」

 やっとの思いでそんな言葉を返すと、店主の目が愉しそうに細められた。

「ああ、あなたはミシマが青色に視えるんですね」

「え」

 店主の言葉に七生が小さく驚くと、彼はゆるく首を振った。

「いいえ、構いません。彼女はね、お客様の精神によって何色にでも視えるんです」

「何色にでも」

「はい」

「……なんというか、その、すごくスピリチュアルなことをおっしゃいますね」

 七生が言葉を選んでそう告げれば、店主は「ええ」と頷いた。

「なにせこの店は、いつだって情緒が不安定な方がいらっしゃる場所なので」

 そう笑った店主は「こちらへどうぞ」と、七生が来客用と予想していたソファを勧めてくれる。すっかり帰るタイミングも逃して、七生は勧められるままソファに身を預けた。革張りのソファは、思ったよりもふかふかとしている。

「なにか音楽でも流しましょうか? 気分が変わるかもしれません」

「ああ、いいえ、お構いなく」

「そうですか? 素晴らしいレコードが手に入ったのでお勧めなのですが……、ではお茶だけでも淹れましょう」

「いいえお茶も結構で、」

「シグレ、キントキ」

 七生の声を制して店主が手を叩くと、ちりん、と鈴の音が聞こえた。艶やかな漆黒の毛並みの猫が二匹、店の奥から軽やかに現れる。赤い首輪に灰色の瞳の猫と、紫色の首輪に金色の瞳の二匹は、お互いに目配せをすると、茶器や茶葉の入った籠をそれぞれに咥えてくる。

「器用でしょう。私の優秀な助手です」

 黒猫たちの頭を撫ぜながら籠を受け取った店主は、湯気の立っていたドリップポットを手にして、慣れた様子でお茶を淹れてくれる。ほわ、と華やかな香りが漂って、「どうぞ」とテーブルの上に差し出されたのは、花茶のようだった。

 美しい青色の花が、ガラスの茶器の中で揺れている。

「綺麗ですね」

「美しいものはすこし、精神を癒してくれますから。温かな飲み物もね。ストレートがお勧めですが、砂糖は要りますか?」

「いいえ」

 七生が断れば、店主はいつも仕事の際に座っているのであろう椅子に腰を下ろした。

 飲みかけだったお茶に口をつけながら、引き出しから分厚いファイルを取り出すと、ぱらぱらと捲って、静かに頷く。そうして、改めて七生を見つめた。

「ご挨拶が遅れました。私は不安定、と書いて、不安定(ヤスカラズサダメ)と言います」

「やすからず、さん」

 不安定、と書いて、だなんて。

 とても本名とは思えないな、と考えながら、七生は口にしてみる。

「呼びづらいでしょう。ヤスさんでもサダちゃんでも、どうぞお好きなように呼んでください」

「はあ……、」

 おどけたように言ってみせた店主にどう返していいか迷って、適当に受け流した。けれどそんな七生の失礼な態度にも、店主はにこやかだった。

「お客様のお名前をお伺いしても?」

「……三神です。三神七生といいます」

「三神七生さん」

 確かめるように七生の名前を口にした店主に、七生は「あの、」と口を開いた。

 ソファの上で居ずまいを正した七生は、店主を見つめる。

「その、正直興味本位でこちらのお店に立ち寄ってしまっただけで、わたしはなにかを売り買いするつもりはないんです。こうしてお茶まで頂いてしまって、こんなことを申し上げるのは大変失礼だとわかっているんですけど」

 そうだ、好奇心で立ち寄っただけの店だった。あれよあれよと流されるままソファに座り、お茶まで出してもらったけれど。

 七生がなんとも言えない居心地の悪さを感じるなか、けれども店主は穏やかな表情を崩さなかった。不可思議な光彩を宿す黒い瞳で、品定めするように七生を眺めた店主は、しばらくして口を開いた。

「七生さんは、この店がなにをする店だと?」

「正直、検討がつきません」

 情緒不安定買取店という店の名前は強烈に焼き付いているけれど。だって、ネットで検索をかけてもなんの情報も出てこなかった。

 七生が素直にわからないと答えれば、店主は黒曜石の瞳を愉しそうに細めた。

「私はこの店で、お客様から”不安定”を買い取る仕事をしています」

「不安定、を?」

「はい。なにせ、人も物も、執着がすぎると”変質”していまいますから」

「……?」

 店主の言葉がなにひとつ理解できなくて、七生は眉を寄せた。そんな七生をよそに、店主は言葉を続ける。

「私が見る限り、七生さんにはまだ”変質”の片鱗はありませんが、少なくとも、不安定を抱えてはおいでだ。ミシマが青く視えるほどにね」

 そう告げられて、七生は水槽に目をやった。エアーポンプが泡を産み続ける水槽の中でひらひらと泳ぐ魚は、やはり七生の目には美しい青色に映った。

「あなたはいまとても情緒が不安定でしょう。きっとつらく苦しい思いをされているのでしょうね。よければ私に詳細をご教示いただけませんか?」

「カウンセリング、みたいなものですか?」

「それはお客さまの受け取り方次第ですね」

「料金などは」

「七生さんの不安定さえ買い取らせていただければ、一切のお代はいただきません」

「その、具体的にどういうことなんでしょう? 不安定を買い取るというのは」

 三十三年の人生で一度も耳にしたことがないフレーズ。一体自分に何事が起こるのかまったく想像ができなくて、七生は慎重に尋ねる。そうすれば店主は「ええ、ええ」と恭しく頷いてみせた。

「ご不安はごもっとも。端的に申しますと、私は人の心が理解できません」

「え、?」

 七生が困惑の声を上げると、店主は指を組んで、その上に顎を乗せた。

「幸や不幸、つらい、苦しい、悲しい、寂しい――いずれも、私にはさっぱり理解ができない。そうして、私と同じような類の生き物は、この世には割合多く存在するのです。彼らは己の心を震わせる感情を買い求めにやってきます。あるいは、誰かの不幸で己を慰めたい者も多い。血の通った感情を理解するために、人や物の”不安定”を買い取っています。存外に高く売れるんですよ」

「――――」

「それに昔から、人も物も執着がすぎると”変質”してしまいますから。これは一種の慈善事業でもあります」

「何度かおっしゃっている、”変質”してしまう、というのは……?」

 店主は何度か執着は変質に繋がると口にするけれど、その言葉の意味がまるで理解できない。素直に問うてみせれば、店主は手を叩く。そうすれば鈴の音とともに、二匹の黒猫が七生のもとへやってくる。

 赤い首輪の猫だけが、籠を咥えていた。

「どうぞ、籠の中のものに触れてみてください」

 危険はありません。

 そう勧められて、七生はそっと籠の中を覗き込む。つやつやとしたサテン地。臙脂色の布にくるまれたなにかが、そこには入っていた。

 細長い、日常的に触れるようななにか。

 七生が躊躇うと、紫の首輪をつけた猫がソファに飛び乗って、七生に身体を擦りつけてくる。促されているような感覚になって、七生はそっと包みを解いた。

 そうして。

 サテン地から現れたのは、鈍色に輝く包丁だった。

「……これ、は……?」

 新品ではない。錆びた包丁は、触れれば嫌にひんやりと冷たい。

「その包丁は――もとは人間の女性でした」

「は?」

 店主の言葉を、うまく呑み込めなかった。

 七生は思わず声を上げた。

「十年ほど前に、とある男性が変死しました。アパートの一室で腹部にその包丁を刺して絶命していたのを発見されて、他殺ではないかと捜査をされましたが、刺し傷の形状や当時の状況証拠が、男が自ら腹部を突き刺したと物語っていた。けれども遺書などはありませんでしたから、結局変死として片付けられました」

 そこまで話した店主は、わずかに声を潜めて、「けれど、」と言葉を継いだ。

「本当は、その包丁に唆されて殺されたのです」

「――――」

 告げられて、背筋を寒いものが奔る。七生は手にしていた包丁を取り落としそうになった。

 危険はありません、だなんて。充分いわく付きで危険な代物ではないか、とわずかに憤慨しながら、七生はサテン地で包丁を乱雑に包んでテーブルの上に置いた。

 包丁のひんやりとした冷たさが指先に残っている。

 たとえこれが作り話だとしても、あんまり悪趣味だ。

 そんな七生の心情などつゆ知らず、店主は淡々と語りを続ける。

「男性は亡くなる数カ月前に、別れた恋人がいました。恋人であった女性は一方的に言い渡された別れにひどく悲しみ、苦しみ、やがて男性を憎むようになりました。こんなにも自分は悲しみの底で生きているのに、この先自分以外のだれかと幸せになる未来が男性にあるのであれば、その前に殺してしまおうと考えたのです」

「…………」

「男性は料理が得意で、恋仲であった際は、彼女へよく振る舞ってくれたようです。そんな彼が包丁を研ぐ姿を、彼女はよく見ていた。恋に苦しみ、悲しみ、憎悪で気が触れた彼女は、彼への執着がすぎて、やがて彼の愛用していた包丁へ”変質”していまいました」

「……”変質”」

 七生が反芻すると、長い前髪で片方しか窺えない店主の黒曜石の瞳に、紫とも緑ともつかない不可思議な光彩が宿る。

 この世のなにもかもを見透かすような瞳は、畏怖さえ感じる。

「この手の”変質”は少なくありません。事故でピアノが弾けなくなったピアニストがピアノに成ってしまったことも、覗き趣味のある男性が鍵穴に変わってしまったことも、はたまた吸血鬼に憧れた少女が吸血鬼に変質したこともあります。逆に絵画や人形などの無機物が人間に憧れて生命体に変質することもある。まあ、往々にして人間に近しい形を持つ物は、人間になりたがるものではありますが」

 手元の分厚いファイルをめくりながら、店主は愉しそうにそう語る。あんまり荒唐無稽な話たち。作り話であると思いたいのに、浮世離れした美貌の店主が語るからか、この店の雰囲気がそうさせるのか、どこか嘘とも言い切れないと考えてしまう。

 七生がテーブルの上の包丁を一瞥すると、傍らの猫が七生の膝の上に乗った。甘えるように頬ずりされて、そっと艶やかな毛並みを撫ぜる。紫色の首輪に金色の瞳のこの猫は、果たしてシグレだろうか、キントキだろうか。

 籠を携えていた赤い首輪に灰色の瞳の猫は、いつの間にか籠を放って、ティーカップと包丁の乗るテーブルの上に丸くなっている。

 ほんの一時、気が緩んだ。

 けれど。

「さて、七生さん」

「!!」

 突然目の前に影が落ちて、七生は息を呑む。

 不安定を名乗る美しい生き物は、どうやったのか、音も気配も立てずに七生の目の前に現れた。ついいましがたまで仕事用の机に向かっていたはずなのに。一体、どうやって。

 いつの間にか七生の傍らに立ち、上体を屈めて七生に視線を合わせた店主からは、甘ったるい香りがする。そうだ、この店に漂うのと同じ香り。上品ですこし重たい香りは、なんだか深淵に引きずり込まれる心地がする。

 七生を覗き込む黒曜石の瞳は、やはり緑色とも紫色ともつかない不可思議な光彩を秘めている。目を、逸らせない。動けない。影を縫い付けられたように、身体がまるで動かなかった。

 汗がじわりと背中に滲んで、呼吸が薄くなる。

 決して追われているわけではないのに、それでも。逃げられない、と感じた。

「どうでしょう、よろしければ、七生さんの不安定の査定など」

「査定、ですか」

 鼓動が早くなる。喉がからからで、声が掠れた。

「ええ。七生さんの不安定を査定し、その不安定の度合いによって、こちらから買取金額を提示します。そこから売却なさるかどうかは、七生さんにすべて決定権があります」

「…………、売却すると、どうなるんですか?」

 やっとの思いで七生が尋ねれば、店主はにこりと笑って、屈めていた身体を戻した。そうして、やけに芝居がかった様子で、両の腕を拡げてみせた。

「不安点を売却していただければ、いまこころに抱える苦しみや悲しみから解放されます。七生さんは胸を占拠する仄暗い出来事を綺麗さっぱり忘れて、これからは今夜のように涙を流さなくてもよくなります」

「! どうして、泣いていたって……っ」

「目が赤くなっていましたから。それに、七生さんはミシマを青色だとおっしゃったでしょう」

 そう穏やかな声で告げる店主は、ただただずっと、にこやかに微笑んでいる。否、優しさから微笑んでいるのではなく、こちらを安心させるための処世術として穏やかな表情や口調が身についているだけだ。それが容易に想像できて、背筋が寒くなった。

 美しく、不気味で、恭しい。いけないと思うのに、どうしてか、その話に耳を傾けてしまう。

「七生さんが今すぐ家に帰りたいなら、どうぞ。私は引き留めません」

しかし、と続ける声が、妙に耳にまとわりついた。

「今夜の七生さんは、一人でいたくないのでは? これから家に帰り、悲しみを思い出して、一人きりで泣きじゃくったり、いっそ死にたいと嘆いて、苦しんだりするのでしょう」

「そ、れは、」

「それならいっそ、目の前の得体の知れない男に、まずはわけを話してみませんか。最終的に不安定を売却するかしないかは、七生さんが決めることです。無料で都合よく苦しみを聞いてくれる人間なんて、そうそういません」

「……………」

「少なくとも今夜のあなたにとって、私は都合がいいはずですよ」

 前髪のあわいから覗く左目が、また不可思議にきらめいた。

 童話に登場する悪い魔女のように狡猾に、彼はこちらをそそのかしてくる。けれどどこか抗えない自分がいて、七生は好奇心でとんでもない店に足を踏み入れてしまったのかもしれないと感じていた。

 帰るか、帰らないか。

 けれど、今夜、確かにわたしは求めていたはずだった。この状況から、このどうしようもない苦しさから救い出してくれる、都合のいいだれかを。

 七生は腹を括ると、ぽつぽつと己の境遇を話し始めた。

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