Eli, Eli, lema Sabachthani? - 1
神様なんてものは存在しない。
否、存在したとして。
彼らのお気に入りの人間にしか、祝福を与えない。
お気に入りになれなかったわたしは、神に見捨てられている。
***
金曜、仕事終わり。
十月の半ば。夜風は秋を孕んで、肌寒さと寂しさを運んでくる。
三神七生(みかみななお)は数日前に失恋をしたばかりで、このまま週末を迎えるのが心底に嫌だった。まっすぐ家に帰りたくなくて、一人になるのがどうしても嫌で、普段は近づかない繁華街を訪れた。
そこかしこから漂う、食べ物の匂い、お酒の匂い。行き交うタクシー。ごみが捨てられた路地、くたびれたサラリーマンや、派手な格好の若者たち。
名前を知らない有象無象の寂しさが集まって生まれた、賑やかな繁華街。
ぎらぎらと輝く看板を眺めながら、七生は雑踏に身をまかせる。
女性一人で、こんな時間に、とも思うけれど。もう三十も過ぎている。多少危険な可能性があるとしても、構わない。いまいちばんに嫌なのは、一人でいることだから。
目的の店があるわけでもなく、ただただ人波にのまれて繁華街を歩いていく。
正直失恋のショックで空腹なんか感じられない。なにか口に入れたいわけじゃない。どこかへ行きたいわけではなくて、ただただ、家に帰りたくないだけ。
あてどもなく彷徨う金曜の夜。
一人でいたくない。けれど、適当なだれかに声をかける気力も勇気もない。そんな体たらくであるくせに、この状況から救い出してくれる、都合のいいだれかを求めている。ありえないことだと知っているくせに。
なんて臆病でずる賢いんだろう。わかっている。わかっているけれど、いまだけは許してほしかった。
仕事終わりで化粧も崩れて、おまけにこの世の不幸のなにもかもをすべて背負ったような顔をしている。だれもこんな女に話しかけたいとは思わないだろうな、と七生は一人自嘲気味に鼻で笑った。
あてどもなく、雑踏を歩いていく。賑やかで、そのくせどこか寂しい場所。たくさんのひとたちのエネルギーがぶつかりあって、混沌としている。人混みは苦手だった。いつもならば煩わしい喧騒が、今日はすこし安心する。
いくらかの路地を曲がるうち、だんだんと人の波が減っていく。マンションや一軒家が立ち並ぶようになる。
賑やかさは薄れ、寂寥が増していく。
住宅街のなかに存在する個人経営の店から、ぽつぽつと明かりが漏れている。
ああ、やはり家に帰るしかないだろうか。
目的のない冒険は、目的がないからこそすぐに終わってしまう。
どこへも行きたくない。だって、七生はただ帰りたくなくてあがいているだけだ。目的地なんてない。心が楽になる場所を知らない。それでもただ明確に、一人になりたくない。
そのうち、じんわりと涙が浮かんでくる。夜闇の中にいるから、きっと誰にもばれやしない。堪えきれずまなじりからぽろ、と涙が落っこちるのを感じて、とんでもなく惨めな気分になった。こんな、こんな、本来なら賑やかな金曜の夜に。ほんの少し前まで、金曜はいっしょに過ごしてくれるひとがいた。いっしょに料理をして、適当な動画を眺めながら食事をして、熱を分け合って眠るひとがいた。
あなたは知らない。そばにいてくれるひとがいるだけで、わたしがどれだけ安堵していたのかを。
一度こぼれてしまった涙は次々溢れてきてしまう。
これ以上泣くまいと堪えるせいで、喉の奥が引き攣って苦しい。それでもひっきりなしに零れ落ちる涙に、七生はその場にしゃがみ込みたくなった。
「~~~~っ、う、」
いけない。やっぱり、家に帰ろう。帰らなきゃ。
軽くパニックになりながら、踵を返そうとする。
そうすると、突然。
ついさっきまでは、まったく意識しなかった文字が涙で歪む視界に飛び込んできた。
『情緒不安定買取店』
夜闇の中、店の入り口にたたずむ電飾のスタンド看板。
雨風にさらされてひび割れた跡がある白い看板に、まったくおしゃれでもなんでもないゴシック文字で書かれた『情緒不安定買取店』の黒い文字は、けれども七生の目を引いた。
とっても胡散臭い。暗がりの中にぽつんと存在する店。入り口はアンティーク調の木製のドアで、取りつけられた真鍮のドアノブは錆びついている。
誘うように、わずかに扉は開いていた。その隙間から、なにやら甘ったるい香りと、ぼんやりとした明かりが漏れだしている。
ぼろぼろと涙を流しながら、七生はその扉を眺めた。
惨めな夜に邂逅した、あんまり怪しい店。
占いかなにかの類だろうか。七生はスマートフォンを取り出して、店の名前と大体の現在位置を検索する。けれども関連のある情報はなにひとつヒットしなかった。
「……………」
七生はしばらく泣きながら立ち尽くして、どうせ死にたいような気持ちだったのだ、と決意を固める。いまの自分は不幸だ。もっとつらい境遇や状況のひとがいるのなんて当然知っているけれど、それはそれとして、いまのわたしはとても苦しい。
わたしの苦しみや悲しみはわたしだけのものだ。
どうせ死にたい気分だったのだから、この際詐欺に遭ったって、いい。
七生は涙を拭うと、そっとドアノブに手をかけた。
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