情緒不安定買取店

夜縋

Introduction




「あなたの中の”不安定”を買い取ります」




 ――――成れの果てに、見入らぬ店が現れる。


 もういっそ、消えてしまいたいような夜。

 寂しくて、一人でいたくなくて、寄る辺ない、そんな夜。

 寝付けなくて、苦しくて、それでも手放せない執着に気が触れそうな夜。


 寂寥、悲哀、恐怖、嫉妬、憧憬、妄執、絶望、殺意――そのほかにも、数多く。

 執着がすぎると、ひとも物も”変質”してしまう。

 成れの果ての感情を持つものだけが、辿り着ける。

 己の中に巣食う不安定を買い取ってくれるという、奇怪な店。




   ***




「…………」

 ちかちかと明滅する、電飾のスタンド看板。

 長年雨風に晒されて風化してしまった看板はひび割れて、隙間から中に入り込んだ小さな羽虫が飛び回って、その短い命を燃やしている。

 いつも通る道に、見知らぬ店がある。

 繁華街と住宅街のあわい。通勤に外出にいつも使う道は、土曜の夜とあって人々の往来が多い。そんな中で見つけた、違和感。

 いつだって休業日の張り紙がしてある怪しげなエスニック料理店の脇に、なにやら見慣れない電飾看板。

 センスの欠片も感じられない黒のゴシック体で記された店名。


『情緒不安定買取店』


 ゴシック文字はところどころ掠れてしまっているけれど、それでも怪しげな名前はきちんと認識できる。

 看板の先に視線を流せば、地下へ続く階段が窺えた。

 いつもはこんな場所は無かったはずだ。新しくオープンしたのだろうかと考えるが、この看板は年季を感じる。わざと作られた古臭さではないから、コンセプトというわけでもなさそうだ。そもそもこの万年休業中のエスニック料理店の脇に、階段なんてあっただろうか。

 日常に溶けこむ、スプーン一杯ほどの非日常。ここでこのまま家路につけば、それだけのことだ。

 けれど、どうせ。どうせ。

 今夜は家に帰って、大切にしていたワインを開けて、いつも隣で眺めるだけだった煙草を吸って。

 そのまま――死ぬつもりだったから。

「…………」

 今日という日までの悲しみを、苦しみを、自らの手で終える予定だった。

 四月二十七日。二十四歳の誕生日。そして、愛すべき友人の命日。

 決めていた。決めていた。一年前から、今日死ぬことを。

 この決定は決して覆らない。どんなことがあろうとも。だって、約束だから。

 それでも、冥途の土産にわずかばかりの非日常を覗いてみてもいいと思えたのは、死んでからの時間のほうが長いかもしれないと思ったからだ。

 死後の世界というものが果たして存在するかは知れないけれど、もしも存在するならば、二十四年ぽっちの人生経験だけを持ち込んでも、すぐさま退屈してしまう気がする。

 これから死のうとしているくせに、死のうとしているから、死んでしまったあとの時間について考えてしまう。だって、先だった愛すべき友人に楽しい話を提供しなければいけない。

 結局、二十四歳の誕生日に死ぬという約束を覆すほどの出来事は、この一年この身に起こりはしなかった。

 そんな中で転がり込んできた非日常。

 小さく息を吐いて、階段を下りていく。もしかしたら、なんてことはない寂れた店であるかもしれない。すこし確認をして、そうして帰ろう。

 階段をぼんやり照らす照明すらちかちかと明滅していて、心もとない。一段、また一段と下っていくうちに、空気が変わっていく心地がする。

 そうして階段の先には、アンティーク調の木製ドア。真鍮のドアノブはすこし錆び付いていて、やはり表に置かれた電飾看板と同様に年季を感じた。

 そっとドアノブに触れる。指先がひやりとして、なんだかすこしばかり、躊躇う気持ちが生まれた。けれど結局好奇心が勝って、そのままドアノブを回す。木製のドアを押し開ける。

 途端。

 漏れだす、古い紙の匂いと、甘い香り。

 本棚の間に設置された水槽のエアーポンプが、泡を生み出す音。

「ああ、お待ちしていました」

 そう恭しく告げて笑ったのは、浮世離れした美しさを持つ男だった。

 これから死ぬ予定の夜に邂逅した、非日常。

 月群夜毎(つきむらよごと)はわずかに逡巡して、けれども怪しげな店内に、足を踏み入れた。

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