廓子守唄

空御津 邃

廓子守唄

 幕府が亡くなる前──くるわの中見世で、端女郎の子として生まれたイチは、客の目に入らない雑魚寝部屋で育てられた。


「何も出来なければ捨てられるか、物好きに売られる。

おれの真似はするな。見て盗め。」


母にはそう躾けられ、物心つく前から雑用係の禿かむろとして働いた。

幼い頃こそ、蝶よ花よと囃し立てられたものの、所詮は父の分からない私生児。

いつしか厄介者とされ、落胤らくいんなどといわ罵詈雑言ばりぞうごんを浴び、怪我も絶えなかった。


それでも母はイチを慰める前に「働け」と言った。しかし、寝床につく時には必ず子守唄を歌い、イチの胸を優しく叩いてくれた。




 イチが6歳になる頃。

母が消えて数日後、ある噂を耳にする──母は病に伏したというものだ。

廓でそういった病に罹るのは珍しくなかった。

イチも日頃から話を耳にしていた為、何となく理解していた。


「母は働けなくなった。用済みになるのだ」と。


しかし、噂はもう一つあった。

それは母が医者から怪しい薬を受け取っていたというものだった。

その医者は、世間では高名なものの廓では嫌な客として有名だった。


遊び方や発言、性癖せいかく────そして、例の薬。

医者はその薬を“万能薬”として売り、一代で富を築いた。

少なからず、世間の認識では善良な医者とされていた。


だが、廓では違った。彼は気に入った遊女に万能薬を勧めては、その遊女が苦悶するのを楽しむ性癖があった。



つまるところ医者は廓に限り、万能薬と称して毒や病のもとを処方した。

しかし、医者は金払いが良く。その万能薬も下級女郎──特に落ち目の遊女にしか勧めないので、妓楼ぎろうの楼主達は黙認していた。


そんな噂を母が知らない筈もない。

では何故母は噂を知っても尚、薬を服用したのか?

落ち目だったから?

否、落ち目だからと命を投げ出すような真似はしない。

それは性格のみならず、イチの存在も大きいだろう。


理由があるとすればきっと母の眼に由来する、とイチは勘付いていた。




 母は幼い頃に父──イチの祖父から暴力を受け、片目が外側を向き、盲目となった。普段は片目を瞑ったり、布で覆うことで隠していたが、隠し通せるものでもなかった。


そこにあの医者だ。

下級女郎の果ては、病に罹り死ぬのが大半だった。


「どうせ、落ち目の遊女。ならばせめて一縷の望みにかけてみよう。」


勝ち気な母の考えそうなことだとイチは思いつつ、もう母とは会えないだろうと、哀しみを心中に押し込めた。




 それから4年経ち、イチは10歳になった。

いつものように雑用をしていると、母が生きているという噂を耳にした。


妓楼を追い出される訳でもなく。

使われなくなった行燈部屋の一つで、半ば監禁のように閉じ込められている──という内容。


以前、母が病に伏したという噂を聞いた時は、数日も経てば話題にすら挙げられていなかったというのに──不思議なことだ。


しかし、イチはその噂を聞いても尚、感情を露わにすることなく、雑用をこなした。




 その日の深夜。もうすぐ日の出という丑四つ刻──イチは雑魚寝部屋を抜け出し、母を探した。

幾つかある行燈部屋に片っ端から耳を当て、慎重に開けては中を覗いた。


そして日が出始めた頃、遂に母を見つける。


暗い暗い隅に在る、壁とも知れないたった一枚の黒ずんだ引戸。

中からは、微かに息遣いが聞こえる────病人特有の笛のようなか細い喘鳴ぜんめいだ。


イチは一瞬、引戸を開けようとして思いとどまる。


「今の姿を母は見られたくないだろう。」そう考え、引戸越しに声を掛ける。


「かか様、かか様。イチです。お久しゅうございます。」


「イチ?──ああ、おれに何の用だ。」

しわがれているが、確かに母の声だ。


「病に伏したと聞いて、亡くなったのだとばかり……ずっと会えずじまいでは嫌ですから、せめてお別れをと。」


母の語気が鋭くなる。

「お別れ? おれは死なん。あの医者のせいだ。」


「?────お医者様のお陰・・ではないのですか?

てっきり薬を飲んでいるから、ここまで生き延びれたのだと……。」


「ハッ! あんた誰に似たんだい。世間はそんな甘くないよ。

後学こうがくの為に教えてやろう。


おれは医者に『万能薬』を貰い、その点眼薬を目に垂らし、この姿になった。

しかし、いつまで経っても死ぬ事はなく、苦しみが増えるばかり。


まさに妖薬さ。


加えてあの医者。妓楼に金を落として、おれの面倒を見るよう仕向けやがった。

『経過観察の為』だとさ。

時折、奴自身も様子を見に来ては、無理矢理薬を飲まされる日々だ。


力も無ければ精神も擦り減った……薬には阿片も入っているようで、

おれは抗うことも舌を噛み切ることも出来ない。死ぬ迄このままだろう。」


イチは暫く黙考した後、淡々とした口調で話し始めた。

「……一目ひとめ、その御尊顔拝見させては下さりませんか?」


「駄目だ。」と、母の遮るような一言。

それでもイチの口調は変わらない。


「後生です。」


暫しの沈黙が続き、痺れを切らしたように母が応える。

「見たのなら、もう二度とここへは来ないと誓え。」


「……はい。」


イチは母が教えてくれた客間での挨拶の様に、そっと引戸を開け、頭を垂れてから母を見た。


汚れた手ぬぐい、血の滲む全身の赤────かつて厳しく、それでいて生き方を教えてくれた母の姿はとうに消え失せ、ただそこには亡者が居た。


しかしまだ、母の精神にはあの時の逞しさと優しさが残されている。

イチは母の姿を目に焼き付けてから、また頭を垂れ、そっと戸を閉じた。




 それから何年経ったか、イチは若くして端女郎から格子となり、近く太夫になると約束されていた。母と同じ妓楼の下で彼女もまた、多くの客を相手にした。


母が亡者の様になって、尚も感情を露わにせず、客前では楽しむ振りをしてみせた。


そうして遂に、彼女は「万能薬の医者」と出会った。

恐らく、以前よりも肥えて白髪も増えている──その資金も同様だろう。


イチが医者に気に入られるまで、そう時間はかからなかった。

甘言、仕草、知識、容姿──そのどれもが格子の域を超え、太夫と遜色ない程だった。




 そしてある晩。宴もたけなわという頃、いつものようにイチは医者に耳打ちした。

「主さん、ここから水入らずで……」


そうして二人きりになった時、遂にイチは「万能薬」について口火を切った。


「主さんが、あの万能薬のお医者さんだとは……最初はてっきり殿様かと思いんした。」


「世辞の上手いことよ。それで、そろそろ頃合いかね──」

「その前に一つ──わちきにも、万能薬を分けてくれなんし。」


「これまた急だな。まさか、万能薬が目的でわしと二人きりに?」


「好かねえことを。

わちきはもう主さんを間夫まぶだと思うているんに……違うんでありんす?」


そう言うと、イチは医者へ身体を寄せた。

「おぉ……違わないとも。ただ、今は手元に無くてな──」


「お戯れをいいなんすな。」と、食い気味にイチが話す。


「主さんなら持ってるんでありんしょう? 廓でもお噂は予々かねがね聞いてやす。」


そう応えるイチを、医者はいぶかしむ。

「ならば何故欲しがる?」


イチは今まで見せたことの無い笑顔を浮かべ、紅色の唇を弾ませた。


「世間で命を助けていることには変わりありんせん。

遊女に何をしようと、それは廓の中の夢に過ぎねえのでありんす。」


「……驚いたな。ここまでわしを理解する者が現れようとは。」

医者はそう言うと酒杯さかずきを膳に置き、イチの身体に腕をまわした。


「あの薬を作る為には研究が必要なんだ。変毒為薬へんどくいやく──しかし、毒を薬と為すには先ず毒を知らねばならん。分かるな?」


「分かりんせん。」


「ん?」


「何故、今更分かりきったことを言うのでありんす? わちきは主さんの話を聞いてから、ずっと想ってやした。私と同じ心持ちの主さんを──」


するとイチは、蝶が花の蜜を吸うかの如く、ゆらりと医者の首へ近付き、接吻した。


「わちきは所詮遊女、廓の中でしか生きられんせん。

かといって、身請けを願う訳でもありんせん。

主さんが望むなら、この場で指切りだって致しんしょう。


ただその前に、主さんから信頼の証として本物の万能薬を見せてほしいのでありんす──ままだと思いんすか?」


イチの潤んだ瞳は、医者のよどんだまなこに向けられた。

医者は少し考えた後、矢継ぎ早に話し始めた。


「わかった。しかし、見せるだけでは君の気持ちを無碍にすること他ならん。

差し当たって一つ、条件が──」


「わかってやす。」

イチは食い気味にそう言うとすそをめくり、短刀を取り出した。


「指切り────でありんしょう?主さんの好み……同じ心持ちでありんすから。」

医者は何かを言いかけるも止め、立て肘をついた。

そして仄かに口角を上げ、据わる目で行く末を見た。


それから直ぐ、イチは自身の右手、小指を切った。

それは魚を捌く様な手付きで、すうっと真っ直ぐな切り口からは鮮赤色せんせきしょくが流れていた。


イチが自身の指を布で包み傷口を縛る間、医者が口火を切った。

「他人の指を渡すことも少なくないというのに、顔色一つ変えず切り落とすとは……恐れ入った。だが、わしの見たい姿では無いな。」


「……また好かねえことを。」


「はは、そう拗ねるな。他が見せる様相とは違い、これもまたおもむきがある。では、契りを──」


医者が懐から箱を出し、一つの真白な丸薬をイチに差し出す。

イチは依然顔色を変えないまま、その丸薬を受け取る。

「どうした? 喜ばないのか?」と、医者。


「わちきはただ、ほうけているのでありんす。

主さんとの契りがこの手に、と────」


丸薬を手中で弄ぶイチ。

それを見て、医者はそっと耳打ちした。


「なぁ……もう、頃合いじゃないか?」

耳元で囁く医者。その息遣いは荒い。


しかし、イチは黙ったまま丸薬を見つめる。

「なぁ、イチ──」


医者がイチの身体に手を伸ばし、月がかげる────瞬く間、医者の手を短刀が貫く。握る手はイチ。


「なっ!?」


意想外の激痛に、手を抱え悶える医者。

イチは立ち上がることなく、医者へとにじりり寄る。


「何故だ! 遊女の恨みか、それとも金、いや万能薬か──」

身悶えする医者に、再度身体を寄せるイチ。


そして耳打ちするような一言。

「痛うござりんすか?────かか様はもっと痛かった。」


イチの握る短刀は、まるで雲を切る様にするりと医者の腹に刺された。


「────!!」


医者は言葉すら話せない程の喘ぎを上げ、イチを退かそうともがく。しかし、その手がイチに届く前に、切先は正中線をなぞり、生き血が流れ出る。


遂に医者は力を失い、仰向けで倒れる。


意識があるのか無いのか────医者は身体を震わせ、夕餉ゆうげと血を吐きながら、イチを見ている。


その視線を断つ為か、イチは逆手に持った短刀を医者のまなこへ突き立てる。


形が無くなれば次は耳、喉、胸、陰部──その行為は次第に苛烈になり、終に医者はかつて人だったとは思えない程、無残に切り裂かれた。




 息を切らし、死体にまたがる血塗れの女。その表情は尚も変わらない。


医者の懐から万能薬を更に取ることも出来たが、本物と偽物の区別がつかない以上、どうしようもない。


イチは四肢を震わせながら、そっと立ち上がり────体勢を崩して、壁にもたれる。その拍子に行燈が倒れ、壁に火が燃え移る。


イチはそれすらも余所目よそめに障子を開け、短刀片手に部屋を出る。


血の池、燃え広がる火────徐々に明るくなる部屋で、残されたはかつての盛者、貪瞋痴とんじんちまみれた死体。

その露顕ろけんしたはらわたは、くらく空虚であった。




 異変に気付いた妓楼の人々は外へで、やがてイチは一人となった。


四肢は震え、一歩一歩が覚束おぼつかない。

行く先は、母の居た行燈部屋。引戸は、以前よりも黒ずみくすんでいる。

妓楼の燃え落ちる音光で、中の様子は窺えない。イチは引戸越しに声を掛ける。


「かか様、かか様。イチです。約束を違え申し訳ありんせん。

薬を持ってきんした。本物の万能薬を────?」


「────」


言葉にもならない唸り声がかすかに聞こえる。

何度も同じことを言っている様にも聞こえるが、その声は判別出来ない程か細い。

火の手が迫り、イチは致し方ないと引戸を開け、以前のように頭を垂れてから母を見た。


「っ────!!」


イチの表情が一変する。


全身を汚れた布で粗雑に覆われたその姿に、最早母の面影は無い。

髪は抜け、肉が腐れ、骨もあらわ。残された片目のまぶたすら剥がれている。

瞳孔は白みがかり、恐らく殆ど見えていない。


生きているのが不思議なほどの状態。


「────」


何かを話している。

イチは一層増す四肢の震えを抑えながら、母の口元に耳を近付けた。


「……ぬの……くすり。」


耳も殆ど聞こえていないのか、延々と繰り返される同じ単語。

その様相から母がどの様に過ごしてきたのか、察するに余りある────否、それはきっと想像以上の苦痛だろう。


自身が失われ、自我が失われ、残されたこれは何とえば良いか。


イチの今まで抑えていた感情が止め処なく溢れ出る。

怒り、哀しみ、慈しみ────懺悔。


それでも僅かな希望にすがり、イチは母へ話しかけた。


「かか様。あの医者は来んせん。

わちきが本物の万能薬を手に入れんしたから。だから……」


母は同じ言葉を繰り返している。

イチは理性の限界を感じながらもこらえ、床に転がる空のわんを取り、自身の掌を短刀で切り付け、水の代わりに血を注いだ。


そして、丸薬を母の渇いた口に入れ、血で流し込んだ。途中、母は何度も咳込み注いだ血を吐き出したが、それでもイチは無理矢理飲ませた。


それが母の為だと思って。


だが、容体は一向に変わらない。


イチは自身のしたことは何の意味も持たなかったのかと諦めかけた────その時、母の口調が変わった。


口元に耳を傾ける。


「イチか……?」


久しく聞く母の声と口調に、イチの口調もまた廓言葉から以前のものへと戻った。


「はい……イチです。かか様、薬が効いたのですね……。」

歪んだ笑顔で応え、母の手を取る。


「いだい、いだい……」

触れただけで痛む母に気付き、直ぐに手を離す。


「どうしてきた……。」


「それは、本物の万能薬を手に入れたから──」


「──万能薬……いやだ……やめてくれ……」


まずい、このままではまた母は────そう感じたイチは、正気を保たせる為に耳元で話し続けた。今までの経緯や本物の万能薬を飲ませたといったことを。


だが、願いは届かない。




 不意に、母が顔をイチへ向ける。


「なにをみている……? やめろ……みるなぁ…………みるなぁあぁぁぁ!」


母は狂っていた。イチが辿り着いた時には、既に。

それを薬で一時的に繋ぎ止めただけ。


イチは為されるがまま、母の弱った力で倒れ、軋んだ指で首を絞められた。

恐らく、本物の万能薬にも麻薬に通ずる何かが混じっているのだろう。

鎮痛作用でも無ければ、ここまでの力は出まい。


垂れる母の体液、身体に触れる汚れた布、妓楼の燃える破裂音────次第に意識は薄れ、涙で滲む母の姿にかつての面影を見た。


子守唄を聴きながら眠る、あの頃のかすかな思い出。


「ありがとうございます……かか様の手で逝けるなんて、私は幸せ者です。」


母の頬を撫でてから目を閉じ、時を待つ────首から手が離れる。


「すまないイチ……おれが欲をかかなければ……。おれは……なんてことを……。」


母は再度、正気に戻った。


それは奇跡か偶然か、将又はたまた万能薬の効果か────いずれにせよ、泡沫夢幻ほうまつむげん。火の手は引戸の前まで迫まり、彼女達が助かる道はうに消えた。


限られた時間の中、イチは母を抱きしめ、今まで抑えていた感情を露わにした。

それは最初で最期の我が儘であり、唯一の願い。


「かか様、子守唄を歌ってくれませんか。」


母はゆっくりうなずいた。


イチは幼子の様に母の膝を枕代わりにして寝転んだ。

そして母は、イチの胸を優しく叩き、子守唄を歌った。


「ねんねんころりよ おころりよ────」


イチは母の子守唄を聴き、眠るように目を閉じた。

これまでにない安らぎの中、彼女本来の控えめな笑顔を浮かべながら。

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