第二章 愛とは

九、青葉大学病院

 仙台市の北西に位置する青葉大学病院は、私立青葉大学に付属する大学病院だ。内科、外科はもちろん、産婦人科、歯科、精神科、リハビリ施設、がんセンターなどが含まれた総合病院として宮城県内のあらゆる患者が訪れる。特別室と呼ばれる入院室はその豪華さで有名で、およそ一般の患者が手を出せないほどの料金がかかるという。


 諒太郎は正門から病院の敷地に入った。まず七階建ての本館が見え、その後ろには五階建ての新館が隠れるように建っている。だだっ広い駐車場を進みながら、諒太郎はモグラから受け取ったリストを確認した。


「ええっと、本館の七階……って特別室⁉︎」


 リストに書かれていた患者は、そのほとんどが自宅療養となっていた。寝たきりとはいえたまに目覚めては食事を取る。人工呼吸器等の補助が必要ない。入院費もかかる。病院側もいつまでもベッドを貸しておけない、ということで自宅観察扱いになっているようだった。月に何度か県の保健師が訪問しているらしく、諒太郎はその保健師たちに付き従う形で彼女たちを見舞った。モグラの使いだと言えば、保健師たちに特に詮索されることもなく、見舞いはスムーズに終わった。


 何で誰も何も聞いてこなかったんだろ……。怒られるより怖い。モグラさんってどういう人なんだ。


 ともあれ、諒太郎が面会できた患者は五人。いずれも肌が白く、今日は全員昏睡状態だった。家族の話によると、ただ眠る頻度が高かっただけだったのが、ここ数ヶ月で徐々に増え、今ではほとんど目覚めないという。


 安藤さんが言ってた被害者たちと同じだな。もしかしたら彼女たちも発症する前に被害に遭っていたのかもしれない。


 これから会う患者はそんな中でも珍しく入院していた。しかも特別室だというのだから、相当な金持ちなのだろう。


 駐車場から歩くこと五分。本館の自動ドアを潜ると、諒太郎を待っていたのは患者がひしめく待合室だった。患者の波を抜けて前方のエレベーターに向かう。七階に上がると、ナースステーションは目の前だった。看護師たちは忙しそうだったが、その中の一人に何とか声をかけた。


「すいません、葎さんから言われてきたんですけど」

「は? モグラ?」

「あ、ええと……。草冠に律令の律って書いて『モグラ』です」


 葎とはモグラの偽名だ。まさかモグラが作った漢字ではないかと疑っていたのだが、スマホで調べると一般的にはムグラと読むつる草の総称のようだ。苗字としても使われているらしい。


「あぁ! 葎さんですね。少々お待ちください」


 諒太郎が本日五度目の説明をすると、看護師はどこかに電話をかけ始めた。ほどなく、白髪に髭を蓄えた眼鏡の老医師が現れる。医師は名前を有馬、と言った。


「お待ちしておりました。こちらです」


 有馬医師は挨拶もそこそこに、長い廊下を進み始めた。諒太郎も慌てて後に続く。

 有馬医師は歩くのがずいぶん速い。諒太郎はついていくのがやっとだ。


「あのっ」

「モグラさんとは、まぁ、あまり大きな声では言えないが懇意にさせてもらっている。彼らは決して褒められたことをしているわけではない。だが、人命を救うという手段として、私は何でも使いたい」

「はぁ。……あのっ」

「君はそれを悪だと思うかね、若いの? 命の前では善だの悪だのと論じている暇はない。死は一瞬だ。掴み損ねればあっという間に過ぎ去ってしまう。だからこそ、私たちには悩んでいる暇などない。だからこそ、私たちは善も悪も飲み込まなければならないのだ」


 どこか言い訳がましいことを早口で言い切ると、有馬医師はある扉の前で足を止めた。重厚そうな木のスライドドアは、通り過ぎてきた他の病室とは明らかに違う。ふと辺りを見回すと、この一部屋だけ隔離されているかのようにフロアの端に位置していた。


「……彼女の名前は『支倉秋穂』」

「支倉?」


 まさか、と思う。そんな諒太郎に気づいていない様子の有馬医師は、患者の概要について説明し始めた。


「四年ほど前からだ。睡眠障害もなく、いたって健康だった彼女は突如眠り始めた。始めは丸一日、次に三日、次に一週間。今では一ヶ月ほど寝て、起きているのはごくわずかな時間だ。類似している症例にナルコレプシーがあるが、それともまた違う。検査も行ったが、体には何の異常もなかった」

「あの……」


「血液検査、脳波検査、ありとあらゆる検査を行った。県内の病院とも連携し、同じ症状の患者がいることがわかったが、それだけだ」

「いや、だから、あの……」


「患者を救えず何が医者だ。何が医療だ。私たちは無力だ」

「あの!」


 諒太郎の声が廊下に響いた。ナースステーションから何人かの看護師が顔を出しているのが、視界の端で確認できる。

 有馬医師はそこでようやく口を止め、諒太郎に視線を寄越した。


「……何だい?」

「あの、その患者さんには旦那さんと息子さんがいませんか? あ、息子の名前は——」

 すると、目の前のドアがガラリと音を立てた。


「どうしたんスか、有馬先生? てか何か、聞いたことがある声がしたような……」


 明るい栗毛、軽い口調。諒太郎は口をぽかんと開けた。


「潤!」

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モグラブラッド 海野鯱 @shati_umino

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