第15話「運命の舞踏会、開幕」


「ヴィオレット様、お目覚めですか?」


穏やかな声が彼女の意識を現実へと引き戻した。ヴィオレットはゆっくりと目を開け、見覚えのある天蓋付きのベッドにいることに気づいた。


「レイモンド…?」彼女は混乱しながら身を起こした。


「はい、お嬢様」レイモンドは微笑んだ。「今日は特別な日です。月光舞踏会ですよ」


「月光舞踏会...?」


彼女は慌てて手を見た。月環は彼女の指にあったが、完全に砕け散っていた。銀の指輪は形を留めていたものの、ひび割れが全体に広がり、かつての輝きはなかった。「残り一度」という刻印さえも消えていた。


「月環が...」彼女は言葉を失った。


「心配になさいますな」レイモンドは静かに言った。「最後の残機を使われたのですね」


ヴィオレットは記憶を整理しようとした。彼女の脳裏には、鮮明な場面が浮かんでいた。セレストの死。フレデリックの負傷。そして最後の月環の力を使って時間を戻したこと。


「いつに戻ったの?」彼女は混乱しながら尋ねた。


「今日は月光舞踏会の日です」レイモンドは答えた。「前回の使用からまだ何時間も経っていません」


ヴィオレットは驚いた。月環の最後の残機は、わずか数時間しか時間を戻せなかったのだ。それは彼女の予想より遥かに短い時間だった。


「セレスト!彼女はどこ?」彼女は急に思い出して尋ねた。


「彼女は王宮にいると思われます」レイモンドは答えた。「ドラクロワの監視下で」


「フレデリックは?」


「彼は無事です。今、守護者たちと最終的な計画を練っています」


ヴィオレットはほっとした。少なくとも、彼らは生きている。彼女の記憶では、セレストは儀式の間に命を落とし、フレデリックは重傷を負っていた。しかし今、彼らはまだ無事だった。


彼女はベッドから出て、窓の外を見た。夕暮れが近づき、王都に薄暗い影が落ち始めていた。数時間後には、月光舞踏会が始まる。そして、彼女は今度こそ、全てを変える必要があった。


「月環は使えないの?」彼女は指輪を見つめながら尋ねた。


「力の大部分は使い果たされました」レイモンドは説明した。「時間を遡ることはもうできませんが、まだわずかな力は残っているようです」


「わずかな力...」ヴィオレットは考え込んだ。


彼女は急いで書斎に向かった。フレデリックと他の守護者たちが地図を広げて話し合っていた。彼らはヴィオレットを見ると、驚いた表情を見せた。


「ヴィオレット!」フレデリックは彼女の方に歩み寄った。「どうしたんだ?まるで幽霊でも見たような顔をしている」


「フレデリック...」彼女は安堵の表情で彼を見つめた。彼は無事だった。胸に傷もなく、元気そうだった。


「何があったのだ?」彼は彼女の様子を心配そうに見た。


「月環を使ったの」彼女は静かに言った。「最後の残機」


部屋が静まり返った。守護者たちは驚きと心配の表情を交換した。


「なぜ?」フレデリックは彼女の手を取った。「何が起きたのだ?」


「これから起きることを見たの」ヴィオレットは震える声で言った。「セレストが死に、あなたも重傷を負う。全てが失敗に終わるわ」


「未来を見たのか?」イザベラが驚いて尋ねた。


「未来ではなく、実際に経験したの」ヴィオレットは説明した。「ドラクロワは偽の手紙で私たちを罠に嵌め、秘密の儀式を行っていた。セレストの体を『赤き月』の女王エリオネラに乗っ取らせて...」


彼女は全てを説明した。偽の手紙、地下の儀式、セレストの犠牲、そして月環の使用まで。守護者たちは静かに、しかし真剣に聞き入った。


「これは重大な情報だ」フレデリックは考え込んだ。「ドラクロワの真の目的が見えてきた」


「エリオネラとは誰だ?」レイモンドが尋ねた。


「古代の魔女だと思われます」イザベラが答えた。「『赤き月』の伝説には、レオナルド王の時代に時間の力を求めて敗れた女王の話があります。彼女の魂は代々継承され、いつか完璧な器を得て復活するとされていました」


「そして、その完璧な器がセレスト...」ヴィオレットは悲しげに言った。


「王家の血を引く双子の一人」イザベラは頷いた。「理にかなっています」


「どうすれば彼女を救えるの?」ヴィオレットは切実に尋ねた。


「二つの道があります」イザベラは慎重に言った。「一つは、儀式そのものを阻止すること。もう一つは、エリオネラの魂が完全にセレストを支配する前に、彼女自身の意識を強化することです」


「後者のためには、双子の絆が鍵になるでしょう」レイモンドが付け加えた。「たとえ月環が完全な力を失っても、あなたとセレストの間には特別な繋がりがあります」


「でも、それには彼女に近づく必要があるわ」ヴィオレットは言った。「しかも、ドラクロワの監視なしで」


「それには舞踏会が理想的だ」フレデリックは言った。「多くの人で混雑する場所なら、一時的に彼女と二人きりになれるかもしれない」


彼らは計画を練り直し始めた。ヴィオレットの未来の経験から、彼らはドラクロワの罠を避け、より効果的な戦略を立てることができた。


「羽飾りはどうする?」フレデリックが尋ねた。「ドラクロワはそれを欲しがっているはずだ」


「彼に渡すわけにはいかないわ」ヴィオレットは言った。「でも、セレストを救うための交渉材料にはなるかもしれない」


「危険な賭けだ」フレデリックは心配そうに言った。


「でも、選択肢は限られている」レイモンドが現実的に指摘した。「月環の力がなければ、羽飾りは私たちの最大の切り札です」


計画を立て終えると、彼らは各自の準備に取りかかった。ヴィオレットは母から受け継いだというドレスを身につけ、砕けた月環を指に、そして羽飾りを特別な袋に入れて持った。


鏡の前に立ち、彼女は自分の姿を確認した。銀と青の生地に月と星の模様が刺繍されたドレスは、彼女の青い瞳を一層際立たせていた。しかし、彼女の目には疲労と決意が混ざった表情が浮かんでいた。


「今度こそ、全てを正すわ」彼女は自分自身に誓った。


夕暮れ時、彼らは宮殿に向かった。フレデリックとヴィオレットは正面から入場し、他の守護者たちは様々な経路で潜入する予定だった。王太子にも密かに連絡を取り、状況を説明していた。


「緊張している?」馬車の中でフレデリックが尋ねた。


「少し」ヴィオレットは正直に答えた。「でも、これが最後のチャンスよ。もう後戻りはできない」


「私たちは今度こそ勝つ」フレデリックは彼女の手を取った。「君の勇気と知恵があれば」


宮殿に到着すると、既に多くの貴族たちが華やかなドレスや正装で集まっていた。月光舞踏会は年に一度の特別な行事だったが、今年はさらに特別だった。「赤き月」と呼ばれる特別な満月の夜に開催されるのは、三年に一度だけだった。


「ドラクロワの姿は見えないわね」ヴィオレットは会場を見回した。


「おそらく準備をしているのだろう」フレデリックは言った。「儀式は深夜零時に始まるはずだ」


彼らは社交的な笑顔を浮かべながら、会場を移動した。貴族たちと挨拶を交わし、情報を集める。多くの人が「赤き月」について話していた。今夜、月が赤く染まるという噂が広まっていたのだ。


「古代の予言では、赤き月の下で時間の扉が開くと言われています」ある老貴族が語っていた。「そして今夜は三百年に一度の特別な満月なのです」


「興味深いわね」ヴィオレットは微笑みながら言った。「その時間の扉とは何なのですか?」


「過去と未来を自由に行き来できるという伝説の門です」老人は熱心に説明した。「レオナルド王はその力を使って王国を作ったとも言われています」


ヴィオレットはフレデリックと視線を交わした。老人の話は、彼らが知っていることと一致していた。


突然、会場のファンファーレが鳴り、すべての視線が入口に集まった。


「セレスト・ブライトウッド嬢のご到着です」


会場が静まり返る中、セレストが入場した。彼女は白と金のドレスに身を包み、まさに「聖女」と呼ぶにふさわしい神々しい姿だった。しかし、ヴィオレットには彼女の目に浮かぶ不安と恐怖が見て取れた。


セレストの後ろには、ドラクロワ宰相が続いていた。彼は表向き穏やかな表情を見せていたが、その目には冷たい計算と警戒が宿っていた。


「あそこよ」ヴィオレットは小声で言った。


「近づくのは難しそうだ」フレデリックが指摘した。「ドラクロワが常に彼女を監視している」


彼らは機会を窺いながら、会場を移動した。ヴィオレットの心臓が早鐘を打つ。妹は目の前にいるのに、まだ手が届かない。


そして、ついに王太子の到着が告げられた。


「アレクサンダー・クラウン王太子殿下のご到着です」


アレクサンダー王太子は厳かな表情で入場してきた。彼は黒と金の正装に身を包み、威厳に満ちた姿で会場に現れた。貴族たちは一斉に敬意を示した。


「計画通りね」ヴィオレットは言った。「王太子が来れば、ドラクロワの注意も分散するわ」


王太子は会場を見回し、一瞬だけヴィオレットと目が合った。彼はわずかに頷き、会場を進んでいった。彼も計画の一部だった。


音楽が始まり、舞踏会が本格的に開始された。貴族たちがペアになって踊る中、ヴィオレットとフレデリックも一曲踊ることにした。


「王太子がセレストと踊るはずよ」ヴィオレットは言った。「その時が私たちのチャンスかもしれない」


「見張っているぞ」フレデリックは頷いた。


彼らは美しいワルツを踊りながら、セレストとドラクロワを注視していた。予想通り、王太子がセレストに近づき、ダンスに誘った。ドラクロワは一瞬躊躇ったが、王太子の申し出を断ることはできなかった。


「今よ」ヴィオレットは言った。


彼らはダンスフロアに移動し、王太子とセレストのペアの近くで踊った。音楽が高揚する中、ペアが入れ替わる瞬間があった。ヴィオレットはその機会を逃さず、セレストの隣に立った。


「セレスト」彼女は小声で呼びかけた。


セレストは驚いた表情を見せたが、すぐに彼女を認めた。「姉さん...」彼女の声は震えていた。


「大丈夫?」ヴィオレットは彼女の状態を心配した。


「ドラクロワが...」セレストは恐怖に目を広げた。「彼は私を利用して何かをしようとしています。『赤き月』の女王という存在を呼び覚まそうとしているの」


「知っているわ」ヴィオレットは彼女の手を握った。「でも、あなたを救うわ。私たちには計画がある」


「でも、どうやって?」セレストは絶望的な声で言った。「私の中の彼女が強くなっている...特に今夜は...」


「あなたの意識を強く保って」ヴィオレットは真剣に言った。「そして、シャンデリアの下には行かないで。儀式はそこで行われるわ」


「シャンデリア...」セレストは上を見上げた。宮殿の大シャンデリアは、月光を集めるように設計されていた。「分かったわ」


彼女はさらに言いかけたが、音楽が終わり、ダンスが終了した。ドラクロワが彼らに近づいてきた。


「セレスト、楽しんでいるかい?」彼は表面上は優しく尋ねたが、その目には疑念が浮かんでいた。


「はい、宰相様」セレストは従順に答えた。「素晴らしい舞踏会です」


「ヴィオレット・アシュフォード嬢」ドラクロワは彼女に視線を向けた。「今宵は特に美しい」


「ありがとうございます、宰相様」ヴィオレットは礼儀正しく応じた。


「興味深いドレスですね」ドラクロワの目が彼女のドレスの月と星の模様に留まった。「どこで手に入れたのですか?」


「母から受け継いだものです」ヴィオレットは答えた。


「なるほど」ドラクロワの目が細くなった。「エレノア・アシュフォード伯爵夫人のものですか。興味深い」


彼の言葉には明らかな含みがあった。彼は彼女の母について何か知っているようだった。


「失礼します」ドラクロワはセレストの腕を取った。「特別なお知らせの準備があるので」


彼らが去った後、フレデリックがヴィオレットの側に戻ってきた。


「何か聞けたか?」


「セレストは危険な状態よ」ヴィオレットは心配そうに言った。「エリオネラの魂が彼女を支配しかけている」


「王太子は?」


「彼も計画通りに動いている」ヴィオレットはダンスフロアの向こうを指さした。王太子はマーカス・グレイと小声で会話していた。


時間が経ち、舞踏会は盛り上がりを見せていた。しかし、ヴィオレットには緊張感が増すばかりだった。大時計の針が少しずつ進み、深夜零時に近づいていた。


「もうすぐね」彼女はフレデリックに言った。


その時、ドラクロワが舞踏会場の中央に立ち、手を挙げた。音楽が止み、すべての視線が彼に集まった。


「紳士淑女の皆様」彼は高らかに宣言した。「今宵、特別なお知らせがございます」


セレストが彼の側に立ち、王太子も前に出た。ヴィオレットは息を呑んだ。前世の記憶では、これは婚約発表の瞬間だった。


「ルナリア王国の未来を担う、アレクサンダー・クラウン王太子殿下と」ドラクロワは続けた。「我が国の『聖女』セレスト・ブライトウッド嬢の婚約を、正式に発表する栄誉に浴します」


会場から歓声と拍手が湧き起こった。しかし、ヴィオレットにはセレストの表情の違和感が見て取れた。彼女は微笑んでいたが、その目は恐怖に満ちていた。


「さらに」ドラクロワは声を上げた。「婚約に先立ち、セレスト嬢が特別な儀式を執り行います。彼女の『聖女』としての神聖な力を王太子に授ける儀式です」


これは前世と同じ展開だった。ヴィオレットは警戒を強めた。


「セレスト嬢」ドラクロワは彼女に目配せした。「どうぞ」


セレストは一歩前に進み、胸元から聖印を取り出した。それは月と太陽が重なった形の銀の聖印——太陽の羽飾りの中心部だった。


「私は神の名において」彼女は震える声で言い始めた。「アレクサンダー王太子に聖なる祝福を授けます」


彼女は聖印を掲げた。しかし、前世と違い、彼女はヴィオレットの方を見た。そして、かすかに首を振った。彼女は儀式を実行するつもりはなかった。


「どうした?」ドラクロワが焦りを見せた。


「できません」セレストは突然、聖印を降ろした。「私はこの儀式を行いません」


会場にざわめきが広がった。ドラクロワの顔が怒りで歪んだ。


「何を言っているんだ」彼は低い声で言った。「約束通りにしろ」


「いいえ」セレストは毅然と言った。「私はもうあなたの操り人形ではありません」


「愚か者め」ドラクロワの目が危険な光を放った。「そんな選択肢はないのだ」


彼は手を上げ、何かの合図を送った。すると、会場の複数の場所で、黒い服の男たちが動き始めた。「赤き月」の暗殺者たちだった。


「気をつけて!」ヴィオレットは叫んだ。


「反逆者を捕らえよ!」ドラクロワが命じた。


混乱が始まった。貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、黒服の暗殺者たちがセレストとヴィオレットに向かって突進してきた。


しかし、それは守護者たちも予測していたことだった。マーカス・グレイの合図で、王太子の親衛隊が動き出し、暗殺者たちと交戦した。


「セレスト!」ヴィオレットは彼女に向かって走った。


ドラクロワがセレストの腕を掴み、強引に引っ張った。「お前は来るのだ」


「離して!」セレストは抵抗した。


ヴィオレットは彼らに追いつき、ドラクロワの腕を掴んだ。「妹から手を離して!」


「妹?」ドラクロワは冷笑した。「なるほど、気づいていたか。双子の姉妹...」


「そうよ」ヴィオレットは怒りを込めて言った。「そして、あなたは私たちを引き離した」


「それは計画の一部だった」ドラクロワは言った。「双子の力は分けて育てることで強くなる。そして今、その力が一つになる時が来たのだ」


彼は突然、魔術を使い、ヴィオレットを吹き飛ばした。彼女は床に倒れ、痛みに顔をゆがめた。


「姉さん!」セレストが叫んだ。


フレデリックが駆けつけ、ヴィオレットを助け起こした。「大丈夫か?」


「ええ」彼女は痛みを堪えて立ち上がった。


ドラクロワはセレストを引きずりながら、大シャンデリアの下へと向かっていた。舞踏会場の混乱は増すばかりだった。


「儀式を止めなければ」ヴィオレットは決意を新たにした。


「どうやって?」フレデリックは周囲の混乱を見回した。


「羽飾りよ」ヴィオレットは袋から太陽の羽飾りを取り出した。「これがあれば、交渉できるかもしれない」


彼らはドラクロワとセレストを追って、シャンデリアの下へと向かった。そこでは既に、黒服の魔術師たちが円を描いて立ち、何らかの準備を始めていた。


「ドラクロワ!」ヴィオレットは叫んだ。


宰相は振り向き、彼女が持つ羽飾りを見て目を輝かせた。「太陽の羽飾り...よくぞ持ってきた」


「セレストと交換するわ」ヴィオレットは提案した。


「交換?」ドラクロワは笑った。「いいや、両方とも私のものだ」


彼は手を伸ばし、魔術を使って羽飾りを引き寄せようとした。しかし、壊れた月環がかすかに光り、羽飾りを守った。


「まだ力が残っているようだな」ドラクロワは眉をひそめた。


「セレストを解放して」ヴィオレットは毅然と言った。


「それはできない」ドラクロワは首を振った。「彼女は儀式に必要なのだ」


「どんな儀式?」


「時間を支配するためだ」ドラクロワは高らかに言った。「『赤き月』の下で、過去と未来の壁を壊し、時の流れを変える。そして新たな世界を創造する」


「そんな力は一人に与えられるべきではない」ヴィオレットは言った。


「力は持つに相応しい者に与えられるのだ」ドラクロワは言った。「そして、その相応しい者こそが、エリオネラ女王だ」


彼はセレストの方を向き、何かの粉末を彼女に振りかけた。セレストは苦しそうに体を震わせ始めた。


「やめて!」ヴィオレットは叫んだ。


しかし遅かった。セレストの目が赤く輝き始め、彼女の表情が変わった。それはもはやセレストの表情ではなかった。冷たく、古代の知恵を湛えた目が、ヴィオレットを見つめていた。


「双子の力よ」彼女は—いや、エリオネラと名乗る存在は—手を伸ばした。「来なさい」


ヴィオレットの持つ羽飾りが激しく震え、彼女の手から離れようとした。壊れた月環も同様に反応し、指から抜け落ちそうになった。


「ダメ!」ヴィオレットは必死で両方を握りしめた。


フレデリックが彼女を守るように前に立った。「下がれ、魔女」


「邪魔をするな、若造」エリオネラ/セレストが冷たく言った。


彼女の手から暗い力が放たれ、フレデリックに向かって飛んだ。彼は身を翻して避けようとしたが、力の一部が彼の肩に当たり、彼は痛みに顔をゆがめた。


「フレデリック!」ヴィオレットは心配そうに叫んだ。


「大丈夫だ」彼は歯を食いしばった。「前世ほどひどくない」


その言葉に、ヴィオレットは決意を新たにした。彼女は前世の記憶から、これから起きることを知っていた。そして今度こそ、それを変える必要があった。


「セレスト!」彼女は妹—今やエリオネラに乗っ取られた妹—に呼びかけた。「私の声が聞こえる?戻ってきて!」


エリオネラ/セレストが一瞬、動きを止めた。彼女の目に、わずかな変化が見えた。


「姉…さん…」セレストの本来の声が一瞬だけ聞こえた。


「そう!戻ってきて!」ヴィオレットは叫び続けた。


ドラクロワが慌てて介入した。「目覚めよ、我が女王。この娘の声に惑わされるな」


彼は再び魔術の粉末をエリオネラ/セレストに振りかけた。彼女の目が再び完全に赤く染まり、彼女は冷たい笑みを浮かべた。


「愚かな試みだ」彼女はヴィオレットを見下ろした。


しかし、ヴィオレットは諦めなかった。彼女は壊れた月環と羽飾りの力を最大限に引き出そうとした。たとえ時間を遡ることはできなくとも、まだ何らかの力は残っているはずだった。


「セレスト、思い出して」彼女は真剣に呼びかけた。「私たちは姉妹よ。母の子守唄を覚えている?『月の光、星の瞬き、二人は一つ、永遠に...』」


エリオネラ/セレストの表情がわずかに揺らいだ。彼女の目に、一瞬だけ青い光が戻った。


「やめろ!」ドラクロワは怒りを露わにした。


彼は杖を取り出し、強力な魔術をヴィオレットに向けて放った。フレデリックが身を挺して彼女を守ろうとしたが、ヴィオレットは彼を押しのけた。


「今度はあなたを守るわ」彼女は微笑んだ。


魔術の波が彼女に迫る瞬間、壊れた月環が最後の力を振り絞るように輝いた。青い光の盾が形成され、魔術を跳ね返した。


「なんだと!?」ドラクロワは驚いた。


「月環はまだ私を守っているのね」ヴィオレットは感謝の気持ちで指輪に触れた。


エリオネラ/セレストの表情がさらに揺らいだ。彼女は頭を抱え、苦しそうに体を震わせた。


「出て行って...私の体から...」セレストの声が聞こえた。


「黙れ、愚かな器め」エリオネラの声が重なった。


二つの魂が一つの体の中で争っているようだった。


「セレスト!頑張って!」ヴィオレットは彼女に手を伸ばした。


「もう遅い!」ドラクロワは叫び、杖を天井に向けた。「見よ、『赤き月』が昇る!」


窓から見える月が、徐々に赤く染まり始めていた。それは通常の月食とは違う、不気味な赤さだった。


「儀式の時が来た」ドラクロワは高らかに宣言した。「エリオネラ女王、あなたの力を解き放ちなさい!」


エリオネラ/セレストの体が赤い光に包まれ、彼女は両手を広げた。シャンデリアを通して増幅された月光が彼女に注がれ、彼女の周りに魔法陣が形成された。


「このままでは儀式が完成してしまう」フレデリックが焦りを見せた。


「シャンデリア...」ヴィオレットは上を見上げた。そして、決断した。「フレデリック、ロープを!」


フレデリックは彼女の意図を理解し、素早く動いた。彼は壁際にあるシャンデリアのロープに向かって走った。


「止めろ!」ドラクロワが叫んだ。


暗殺者たちがフレデリックを阻止しようとしたが、マーカス・グレイと王太子の親衛隊が介入した。フレデリックはロープに手を伸ばした。


「今だ!」ヴィオレットは叫んだ。


フレデリックがロープを切断した瞬間、巨大なシャンデリアが揺れ始め、やがて落下し始めた。


「みんな逃げて!」ヴィオレットは周囲の人々に警告した。


エリオネラ/セレストも危険に気づき、魔法陣の中から出ようとした。しかし、儀式の力が彼女を引き留めていた。


「セレスト!」ヴィオレットは彼女に向かって走った。


シャンデリアが落下する寸前、ヴィオレットはエリオネラ/セレストを魔法陣から引き出し、共に転がった。


轟音と共に、巨大なシャンデリアが床に激突した。ガラスの破片が飛び散り、魔法陣は破壊された。光の柱が途切れ、儀式は中断された。


「なんてことを!」ドラクロワは絶望的な叫びを上げた。「千年の計画が...」


混乱の中、エリオネラ/セレストの体が光に包まれた。彼女は苦しそうに体を震わせ、やがて、赤い光が彼女の体から抜け出し、空中に浮かんだ。


「私の器...」赤い光の中からエリオネラの声が聞こえた。「返せ...」


しかし、シャンデリアの破壊により儀式が中断され、エリオネラの魂は定着できなかった。赤い光は徐々に薄れ、やがて消えた。


セレストは床に崩れ落ちた。ヴィオレットは彼女の側に駆け寄った。


「セレスト!大丈夫?」


彼女はゆっくりと目を開けた。それは彼女自身の青い目だった。「姉さん...」彼女は弱々しく微笑んだ。「やっと...自分に戻れた...」


「良かった」ヴィオレットは安堵の涙を流した。


フレデリックも彼らの側に来て、笑顔を見せた。「成功したな」


しかし、喜びは長くは続かなかった。ドラクロワが怒りに震えながら近づいてきた。


「全てを台無しにしたな」彼は歯を食いしばった。「だが、まだ終わっていない」


彼は短剣を取り出し、セレストに向かって突進した。「せめて、彼女の血で次の儀式の準備を...」


「させない!」ヴィオレットは妹を守るように立ちはだかった。


そして、予想外のことが起きた。羽飾りが突然、強く輝き、ドラクロワを吹き飛ばした。同時に、砕けた月環からも最後の光が放たれ、二つの光が交わった。


「これは...」イザベラが驚きの声を上げた。


光は徐々に形を成し、一人の女性の姿になった。長い銀色の髪と優しい表情を持つ女性だった。


「母さん...」ヴィオレットとセレストが同時に呟いた。


「エレノア...」ドラクロワは震える声で言った。


女性の姿—エレノアの霊—はドラクロワを悲しげに見つめた。「オスカー、もう十分です」


「エレノア...」ドラクロワの顔から怒りが消え、深い悲しみに取って代わった。「私はただ...あなたを取り戻したかっただけだ...」


「過去は変えられません」エレノアの霊は静かに言った。「私の死も、あなたの罪も。でも、娘たちにはまだ未来があります」


「彼女たちは...」


「私たちの娘たち」エレノアは言った。「あなたが『赤き月』に誘惑されて裏切った後も、私が愛し続けた子供たち」


ヴィオレットとセレストは衝撃を受けた。ドラクロワが彼らの...父?


「そんな...」ヴィオレットは言葉を失った。


「オスカー・ドラクロワ。彼は本名ではありません」エレノアの霊は説明した。「彼の本当の名前は、オスカー・アシュフォード。あなたたちの父です」


「父が...」セレストは混乱した様子で言った。


「『赤き月』に魅了され、権力を求めて家族を裏切った男です」エレノアは悲しげに言った。「彼は一人の娘をエリオネラの器として『赤き月』に差し出し、もう一人を守護者に託した」


「あなたは知っていたの?」ヴィオレットは震える声でドラクロワに尋ねた。


「最初から」ドラクロワ—オスカー・アシュフォード—は頷いた。「だが、もはや血の繋がりよりも、力の方が重要だった」


「あなたは狂っている」フレデリックは彼を非難した。


「さようなら、オスカー」エレノアの霊は言った。「あなたはもう私たちの家族ではありません」


エレノアの霊は二人の娘の方を向いた。「ヴィオレット、セレスト。あなたたちは素晴らしく成長しました。これから先も、共に歩んでください」


「母さん...」セレストは涙を流した。


「月環と羽飾りの力は、保護するためにあります。決して支配するためではありません」エレノアは最後の言葉を残した。「あなたたちならば、その力を正しく使えるでしょう」


エレノアの霊は徐々に薄れ、光の粒子となって消えていった。最後の光が羽飾りと月環に戻り、二つの遺物は穏やかに輝いた。


ドラクロワは床に崩れ落ち、顔を覆った。「エレノア...」


マーカス・グレイと衛兵たちが彼を取り囲んだ。


「オスカー・ドラクロワ、あなたを反逆罪で逮捕する」アレクサンダー王太子が厳かに言った。


ドラクロワは抵抗せず、静かに頷いた。彼の中の狂気は消え、ただ疲れた老人が残っていた。


「終わったのね...」ヴィオレットはセレストを抱きしめた。


「ええ」セレストは彼女に寄り添った。「やっと自由になれた」


フレデリックも彼らの側に来て、笑顔を見せた。「よく頑張った、二人とも」


混乱は収まり始め、貴族たちが恐る恐る戻ってきた。アレクサンダー王太子が前に進み出て、宣言した。


「紳士淑女の皆様、今夜の出来事は誠に遺憾でした。ドラクロワ宰相は反逆罪で逮捕され、裁きを受けます」


彼は続けて、ヴィオレットとセレストの方を向いた。「そして、ここで重要な発表があります。ヴィオレット・アシュフォード嬢とセレスト・ブライトウッド嬢—いや、セレスティア・アシュフォード嬢は、王家の血を引く高貴な双子の姉妹です」


会場からざわめきが起こった。


「彼女たちの勇気と機転により、王国は大きな危機から救われました」王太子は敬意を込めて頭を下げた。「我々は彼女たちに感謝の意を表します」


守護者たちも集まり、ヴィオレットとセレストを囲んだ。イザベラが微笑んで言った。「終わりました。そして新たな始まりです」


窓の外を見ると、赤く染まっていた月が、徐々に本来の銀色に戻りつつあった。「赤き月」の夜は終わりを告げていた。


「さあ、帰りましょう」フレデリックはヴィオレットに手を差し伸べた。


彼女は微笑み、セレストと共に立ち上がった。月環は砕けたままだったが、かすかに光を放っていた。まるで、その使命を終えて安らいでいるかのように。


「新しい始まりね」ヴィオレットはセレストに言った。


「ええ」セレストは頷いた。「今度は、一緒に」


彼らは肩を寄せ合い、新たな未来への一歩を踏み出した。

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