第2話 華麗なる異世界デビュー

「……マジで、何がどうなってんだよ……」


 森のど真ん中で、俺は呆然と立ち尽くしていた。


 ズボンには泥がつき、シャツは枝に引っかかって破けてるし、手に残ってるのは工事現場で使ってたヘルメット一つだけ。


 体の感覚は、ついさっきまでオフィスの椅子に座ってたそのまんま。なのに目を覚ましたら、見たこともない森の中ってどういうことだ。


 いくら目をこすっても、何度まばたきしても——これは絶対、夢なんかじゃない。


「……昼?もう昼になったの?てかここ、もしかして公園……?いや、昨日酒は飲んでないはずだけど……」


 現実逃避もそこそこに——


―バサッ。


「……っ!」


 草むらの向こうから、なにかが葉をこするような音がした。


 ゾワリと背筋を冷たい汗が伝う。


 バサ……バサ……


「ひ、ひいぃぃっ!?」


 俺は条件反射で木にもたれかかりながら後ずさった。


 目の前の茂みがガサガサと揺れ——


ドンッ。


 姿を現したのは、ただのイノシシだった。


「……な、なんだ。びっくりした。……ただの豚じゃん。おどかしやがって……」


 だが、安心したのも束の間。


「……って、え?なにこいつ、俺のこと見てない?」


 その瞬間——


「グギイイイイイイィィィッ!!」


 イノシシが突進してきた。


「えええええええええええええっ!?」


 筋肉の詰まった巨大な体、目測で三メートルはある。


 その目には、明らかに殺気がこもっていた。


「……う、嘘だろ?俺を……狙ってんのか!?」


 あり得ないくらい情けない悲鳴を上げながら、俺は全力で逃げ出した。


「なんで!?なんでイノシシがこんなにでかいんだよ!?てかなんでこんなに凶暴なんだよぉぉぉっ!!」


 振り返る余裕なんてない。ヘルメットなんか投げ捨てて、滑りそうな足を必死に踏ん張りながら森の中を走り抜ける。


 木の根っこに何度もつまずきそうになりながらも、止まるわけにはいかない。


 息は切れ、足はガクガク。でも、生きるために走るしかなかった。


「やばい、やばい……本気で死ぬ……俺、このまま……豚に殺されるのかよ……!!」


——その時だった。


 背後から聞こえていた、あの荒々しい息遣いと足音が、ふっと消えた。


「……え?」


 一瞬、体から力が抜けて心臓がズンと重く沈む。イノシシがいない。


 さっきまで確かにすぐそこにいたはずなのに、気配すらしない。


「……まさか、振り切った?いや、そんなはず……あんな巨体が……」


 何かがおかしい。


 呼吸を整えながら、俺は恐る恐る前を見た。


「……あっ」


 その言葉と同時に——

 足元に、地面がなかった。


「……えっ」


 ふわりと体が宙に浮く。


 そして、容赦のない重力が俺を谷底へと引きずり込んだ。


「ちょ、ちょっと待って!?誰かっ、誰かいませんかぁぁ!?これって完全にクリシェ展開じゃねぇかぁぁぁぁああああッ!!」


 落ちていくその瞬間、ひとつだけ確かにわかったことがある。



 俺は今、間違いなく……まったく別の世界に来てしまったんだ。


——ドサァンッ



「うぅ……」


 頭が重い。


 口の中はカラカラで、体は鉛のようにだるい。まぶたが鉛のように重かったが、無理やりこじ開けるようにして目を開ける。


——見えたのは、見知らぬ天井。


「…ここは……どこだ?」


 その瞬間、バラバラだった記憶の破片が繋がり始めた。


「あ……そうだ。イノシシ……崖……」


——そうだ。

 たしかに俺は、森の中で巨大なイノシシに追われて、足を滑らせて崖から落ちた……


 そして、その後の記憶はない。


 ゆっくりと周囲を見渡す。


 部屋はあまり広くはないが、落ち着いた雰囲気で整えられていた。木造の壁に囲まれた室内には、質素な机と使い古された羽ペン、束ねられた紙が置かれている。


 片側の壁には背の低いクローゼットと大きな本棚が並んでいて、厚い本がずらりと並んでいたが、表紙に書かれている文字はまったく読めなかった。


——ここは…病院じゃなくて、誰かの家かな…?


 ベッドの反対側の隅には、布がかけられた飾り棚があり、その上には乾燥したハーブや小さな壺、ハンカチなどが丁寧に並べられていた。


 ほのかに漂う草の香りは少し苦みがあったが、嫌な感じではない。


 まさに……田舎の薬草屋、って雰囲気だ。


そして——


「……ん?」


 ベッドのそばにある小さな椅子には、誰かが上体をベッドに預けたまま眠っていた。


 陽の光に照らされてやさしく輝く金色の髪。柔らかそうな髪が、布団の上にふわりと広がっている。


 小さな手が俺の腕にそっと触れ、目元には長いまつげが整っていた。


「す… す……」


 少し荒いが、規則正しい寝息が聞こえる。間近で感じる体温とその息遣いが、妙にリアリティを帯びていた。


 顔を少し覗き込むと、彼女はちょうど成人したくらいの若い女性。


 やわらかな目元と、ほのかに赤らんだ頬。少し開いた唇は、深い眠りに落ちた人特有の無防備さを感じさせた。


「……看病の途中で寝ちゃったのか」


 そう呟いてから一度顔を背けて——もう一度彼女を見る。


 頭の中はまだ混乱していたが、少なくともこの瞬間が夢ではないことだけははっきりしていた。あまりにも、すべてがリアルだったから。


 彼女はまだぐっすりと眠っているようで、動く気配はなかった。


 とにかく、状況を把握するためにも、少しずつ腕を動かして起き上がろうとしたその時——


 腕の下に、言葉では言い表せない柔らかくて温かい感触が伝わってきた。


「……ん?」


 何かがおかしい。


 気のせいかと思いながら、ゆっくりと視線を下に向けた。


そして——


 目に飛び込んできた光景は、あまりにも衝撃的だった。


 彼女の上半身、いや正確には——その豊かな胸元が、


 俺の腕に、まるで埋もれるように密着していたのだ。


 もちろん、服は着ていた。着てはいたけれど……これは文字通り、非常に危険な体勢だ!


『ちょちょちょっ、ダメだろこれ!たまたま……いや、たまたまでも、これはリアルすぎるって!?』


 腕に伝わる、言葉にできない弾力。


 その柔らかさは……まさに“生きているやわらかさ”とでも言うべきか。


『ちょ、ちょっとなにこれ!高校生の時の夢が現実になったみたいじゃん!?いや待て、そういう問題じゃない!どうする!?どう抜け出せばいい!?

今の俺の腕、完全にアウトな位置にあるだろこれ!?』


 抜くべきか?それともこのまま静かにしているべきか?動かした瞬間、もっと深く食い込んでしまったらどうするんだ!?


 そんなふうに心の中で百回くらい葛藤していた、その時だった。


「……ん……ぅん……」


 その瞬間——


 彼女の長いまつげがぴくりと震え、ゆっくりと瞳が開かれた。


 澄んだ空のような青い瞳が、ぼんやりと俺の顔を見つめる。


 そして——目が合った。


「——え?」


 一瞬、静寂。


 俺は固まったまま、できる限り自然に……でもどこかぎこちない声で言った。


「お、おはよう」


 彼女はぱちりと一度まばたきをしてから、再び目を開けた。眠たげな顔は、何かを理解しようと必死に思考を巡らせているようだった。


 そして——ゆっくりと、非常にゆっくりと視線を下げる。


 彼女の視線が、その場所に到達した瞬間——


 顔が、一気に耳の先まで真っ赤に染まった。


「……………………」


 一瞬、息を吸う気配。


 そのとき俺は、本能的に悟った。


——来る。


「きゃあああああああああああああああああああああああああっ!?!?!?!?!?!?」


『異世界生活二日目、まさかの大惨事で幕を開ける。』

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