第2話
土曜日。美咲と遊びに行くという、俺にとっては一大イベントの日だ。朝からすでに疲れている。なぜかって? 緊張と不安で、胃がキリキリしているからだ。しかも今日は、ただのお出かけじゃない。昨日の放課後、美咲は俺に「大好きだもん!」と言い放ったのだ。その真意を確かめるための、いや、確かめられるのが怖い、そんなお出かけなのだ。どんな罠が待っているんだ? あの「大好き」発言は、やはり俺をからかうための前フリだったのか? それとも、美咲の「大好き」は、俺の知っている「大好き」とは違う、全く別の意味なのか? 疑問と不安が、俺の脳内を駆け巡る。
待ち合わせ場所は、駅前の広場。約束の時間より十分も早く着いてしまった。誰もいない広場を見回す。美咲は本当に来るんだろうか? ドタキャン、という可能性も十分にあり得る。いや、むしろそれが一番平和かもしれない。「大好き」と言われたことに対する、どう反応すればいいのか分からないこの状況から逃れられる。
と、約束の時間の五分前になったところで、美咲が向こうから歩いてきた。待ち合わせの相手が美咲だと分かっていても、ドキリとする。しかも、あの「大好き」発言の後だ。今日の美咲は、爽やかな水色のブラウスに白いスカートという、なんとも可愛らしい格好だ。休日仕様の美咲は、学校にいる時よりさらに眩しい。まるで、昨日の「大好き」発言なんて、全く気にしていないみたいに、ケロリとしている。それがまた怖い。
美咲は俺に気づくと、パッと顔を輝かせた。
「健一! 来てくれてる!」
「……まあ、な」
俺はそっけない返事しかできない。約束したんだから来るに決まっているだろう。そう言いたいのに、素直に言えない。しかも、あの「大好き」発言の後で、一体どんな顔をして美咲と話せばいいのか分からない。
「心配したんだよー! 健一、本当に来るかなーって!」
美咲はホッとしたような顔をする。心配? なんで美咲が俺なんかのために心配するんだ? 俺が来ないと、昨日言った「大好き」発言の反応を、直接見れないから心配していたんだろうか? それとも、俺が「大好き」と言われて逃げ出すと思ったんだろうか?
「……俺が来ないと、都合が悪かったんだろ」
俺はまた、卑屈な勘ぐりを口にする。もしかしたら、あの「大好き」は、今日の約束を確実にさせるための、美咲の作戦だったのかもしれない。そう考えると、ゾッとする。
「えー? 違うよ! 健一に会いたかったんだよ! だって、昨日、大好きだって言ったでしょ?」
美咲はあっけらかんと答える。そして、サラリと「大好きだって言ったでしょ?」と言い放つ。まるで、朝の挨拶でもするかのように。その平然とした態度が、俺には理解できない。
「……あれは、どういう意味だったんだよ」
俺は思わず尋ねてしまう。昨日の「大好き」発言の真意が知りたい。でも、聞くのが怖い。
美咲は首を傾げる。
「え? そのままの意味だよ? 健一のこと、大好き!」
そのままの意味? まさか。恋愛的な意味で? そんなはずない。
「……そのままの意味なわけないだろ。どうせ、友達としての、とか、幼馴染としての、とか、そういう意味だろ」
俺は自分に言い聞かせるように言った。そうに違いない。そうでないと困る。
美咲はぷっと噴き出した。
「あはは! なにそれ! 違うよ!」
美咲は笑いながら、俺の腕に抱きついてきた。
「恋愛としての、大好きだよ!」
俺の思考回路は再びショートした。恋愛として? 美咲が? この俺を?
「……は?」
声にならない声が出る。頭の中が真っ白だ。美咲の言葉が、全く理解できない。
「ふふふ。そんなに驚かなくてもいいのにー」
美咲は楽しそうに言う。驚かない方がおかしいだろうが! 学校一の美少女が、陰キャの俺に、恋愛として大好きだなんて言うんだぞ!
「……驚いてなんかない」
俺は必死に平静を装う。
「もーう! 健一ったら素直じゃないんだから!」
美咲はさらに笑う。素直? これのどこが素直じゃないんだ。お前の言葉が、俺の理解の範疇を超えているだけだろうが。
「私が健一のこと、恋愛として大好きなんて、知らなかった?」
美咲は首を傾げて、不思議そうに尋ねた。まるで、俺がそんな当たり前の事実を知らないことが、信じられない、という顔だ。
……は?
知るわけないだろうが! そんな事実があるわけないだろうが!
俺は再びフリーズした。美咲の言葉の全てが、俺のネガティブ回路では処理できない。美咲は、自分が俺を恋愛的に好きなことを、俺が知っている、とでも思っていたのだろうか? なぜ? どうして?
「……知るわけ、ないだろ」
俺は絞り出すような声で言った。
「えー! そっかー、知らなかったかー」
美咲は少し残念そうな顔をした。そして、すぐにまたいつもの笑顔に戻った。
「まあ、いっか! 今知ったでしょ?」
……知った、のか? 本当に? 美咲が俺のこと、恋愛として大好き、という、まるで夢みたいな、信じられない事実を?
美咲はニコニコしながら、俺の腕を引っ張った。
「さあ、行こう!」
俺は美咲に引っ張られるように、駅の改札へと向かった。駅の中も、人も、いつもより騒がしく見える。美咲と一緒にいるせいだろうか。俺はまるで、動物園から逃げ出した珍獣のように、周りの視線を感じる気がする。しかも、美咲が俺に、恋愛として大好きだと言った、という事実を知っている(と美咲は思っている)状態でだ。
電車に乗って、しばらく揺られる。窓の外には、見慣れない景色が流れていく。美咲は隣で楽しそうに鼻歌を歌っている。俺はというと、緊張で体が硬くなっている。美咲が俺の恋愛感情を、恋愛として好きだなんて、そんなことが本当にあり得るんだろうか。これはやはり罠だ。美咲の高度なからかいに違いない。
「ねえ、健一、あそこに海見えるよ!」
美咲が窓の外を指差した。言われて見ると、遠くに青い海が見える。海か。どこかの海の近くに行くんだろうか。海で何をするつもりだ? あの「大好き」発言を踏まえて、どんな罠が待っているんだ?
「……海か」
俺は気の抜けた声で答える。
美咲は俺の顔を覗き込む。
「健一、まだ緊張してる?」
「……別に」
するに決まってるだろうが! お前と二人で、あの「大好き」発言の後で、どこかも分からない場所に連れて行かれているんだぞ! 緊張しない方がおかしいだろうが!
「ふふふ。大丈夫だよ!」
美咲は俺の手を握った。その手に、俺はビクリとする。美咲の手は、温かくて柔らかかった。あの「大好き」と言った手だ。
「私と一緒だから、大丈夫!」
美咲は屈託のない笑顔で言った。その言葉に、俺のネガティブ回路が少しだけ停止する。美咲と一緒だから、大丈夫? 本当に? 美咲と一緒だからこそ、あの「大好き」の真意が明かされるかもしれない、という恐怖もあるんだけど。
電車を降りて、バスに乗り換える。さらにローカルな景色になっていく。本当にどこに連れていかれるんだ? あの「大好き」発言に関係する場所だろうか?
バスを降りて、美咲に付いて歩く。細い道を抜けると、目の前に、広大な公園が現れた。大きな池があって、芝生が広がっていて、遠くには観覧車が見える。遊園地と公園が一緒になったような場所だ。
「ここだよ!」
美咲は嬉しそうに言った。
「……公園、か?」
「うん! ここ、すっごく広いんだよ!」
美咲は深呼吸をする。
「空気も美味しいし、人もそんなに多くないし、二人でのんびりできるかなって思って!」
二人でのんびり? こんな広い公園で? なぜ? あの「大好き」発言と関係があるのか?
「……なんで、ここに?」
俺は尋ねる。この公園に、何か美咲にとって、あるいは俺にとって、特別な意味があるんだろうか? 例えば、美咲が俺を好きになった場所とか? いや、そんなはずない。
「だって、健一に見せたかった景色があったんだもん!」
見せたかった景色? この公園の景色か? これが、あの「大好き」発言に繋がる、何か重要な景色なのか?
美咲は俺の手を引いて、芝生の上を歩き始めた。風が吹いて気持ちいい。美咲のワンピースの裾がひらひらと揺れる。
美咲は、池のほとりにある大きな木の下まで歩いてきた。その木の根元に腰を下ろす。俺もその隣に座る。
目の前には、穏やかな池の水面が広がっている。遠くには観覧車がゆっくりと回っているのが見える。
「ね、綺麗でしょ?」
美咲は満足そうに言った。
「……まあ、な」
確かに、景色は綺麗だ。でも、わざわざ俺を連れてきて見せるほどの景色だろうか? これが、あの「大好き」の理由に関係するのか?
「ここでね、前に私、一人で来たことがあったんだ」
美咲が話し始めた。
「その時、この景色を見てたら、ふと、健一のこと思い出したんだ」
俺のこと? なぜ? こんな綺麗な景色を見て、なぜ俺みたいな根暗を思い出すんだ? それが、あの「大好き」に繋がるのか?
「……なんでだよ」
「なんでって」
美咲は俺の方を見て、にっこり笑った。
「健一にも、この景色を見せてあげたいなって思ったんだもん!」
俺に? なぜ? 俺にこの景色を見せる必要がどこにある? これが、あの「大好き」の理由に関係するのか?
「……どうせ、俺が、普段こんな綺麗な景色とか、見慣れてないだろうと思って、可哀想になったんだろ。そして、そんな可哀想な俺を、大好き、って言ってからかおうと思ったんだろ」
俺はまた、卑屈な推測を口にする。あの「大好き」発言を組み込んで、さらにネガティブに推測してみる。
美咲はぷっと吹き出した。
「あはは! なにそれ! 違うよ!」
美咲は笑いながら、俺の腕に抱きついてきた。
「健一にも、この景色を見て、私と同じ気持ちになってほしかったの! だって、私、健一のこと、大好きだもん!」
美咲は、あの「大好き」発言を繰り返した! しかも、前の言葉に続けて! この景色を見て感じた気持ちを、俺と共有したいと思った理由が、「健一が好きだから」?
俺の頭の中は完全にパニックだ。美咲は、あの「大好き」を、冗談ではなく、本気で言っているのか? そして、この景色を見せたかったのも、その「大好き」に関係する理由からなのか?
「……同じ気持ちになんて、なれるわけないだろ。お前と俺は違うんだ」
俺はぼそっと言った。美咲の「大好き」を否定するわけじゃない。美咲が感じたような、素直に「綺麗だな」と思える気持ちに、俺がなれるわけがない、という意味だ。
美咲は俺の腕から離れ、また俺の顔を覗き込む。
「なんで? なれるよ!」
「……俺とお前は、色々と違うんだよ」
「違うけど」
美咲は首を傾げる。
「一緒に見たら、同じ気持ちになれるかもよ? だって、二人でいるのが、一番楽しいんだもん!」
美咲はキラキラした目で俺を見ている。俺は、その視線から逃れるように、また池の方に顔を向けた。「二人でいるのが一番楽しい」? あの「大好き」に加えて、これか。美咲の言葉の攻撃力が高すぎる。
「……そう、なのか?」
「そうだよ!」
美咲は俺の隣にぴったりと座り直す。肩が触れ合う距離だ。心臓の鼓動が早くなる。あの「大好き」と言った美咲が、こんな近くにいる。
「ねえ、健一」
「……なんだよ」
「私、健一と一緒にいる時が、一番、楽しいんだ」
美咲は、夕暮れの空を見上げながら、もう一度言った。その横顔は、夕日の光を浴びて、さらに綺麗に見える。
一番楽しい? 俺といる時が? あの「大好き」は、この「一番楽しい」に繋がるのか? 理由が分からない。こんな暗くて、ネガティブで、面白くもない男といて、何がそんなに楽しいんだ? 俺をからかってるんじゃないのか?
「……どうせ、お世辞だろ。あの『大好き』も、この『楽しい』も、全部お世辞なんだろ」
俺はまた、卑屈なことを言ってしまう。美咲の言葉を素直に受け止められない。だって、そんなはずがない、と思ってしまうからだ。
「お世辞じゃないもん!」
美咲はむっとした顔をした。
「ホントだよ! 健一といると、安心するし、何でも話せるし、私が一番私でいられる気がするんだ! だから、大好き!」
美咲は再び「大好き」と言った! しかも、「安心する」「何でも話せる」「一番私でいられる」という理由付きで!
俺のネガティブな鎧は、少しずつ、でも確実に、溶け始めている。美咲は、本気でそう思っているらしい。でも、なぜ? 理解できない。俺はそんな魅力的な人間じゃない。
「……どうせ、俺をからかってるんだろ。全部、あの『大好き』も含めて、からかってるんだろ」
それでも、俺は疑うことを止められない。そう思わないと、美咲の言葉を信じてしまう自分が、あまりにも馬鹿みたいで耐えられない。
「もう! からかってないってば! だから、大好きだって言ってるの!」
美咲は俺の腕をポンと叩いた。その叩き方にも、怒りというよりは、困惑と、少しの甘えが混じっているように感じられる。
結局、美咲が今日、俺をこの公園に連れてきたのは、景色を見せたかったから、そして、俺と二人でいるのが一番楽しいから、その理由は「健一が好きだから」。しかも、それは「恋愛としての大好き」らしい。
……さっぱり意味が分からない。俺がいつ美咲にそんな風に思われるようなことをしたのか全く分からないし、美咲の「大好き」という言葉の重みが、俺の知っているものと違いすぎる。美咲の行動原理は、俺のネガティブ回路をもってしても解明不能だ。
でも、一つだけ、確かなことがあるとすれば……。
「また、二人でここに来ようね」
美咲は、夕暮れの空を見上げながら言った。
「……ああ」
俺は、それしか言えなかった。でも、その返事の中に、少しだけ、ほんの少しだけ、期待が混じっていたような気がした。あの「大好き」発言の後に、またここに来よう、という美咲の言葉。それは、単なる友達の約束とは、少し違う響きを持っているような気がした。
帰り道。美咲と駅で別れ、一人になった俺は、今日の出来事を反芻する。美咲との、初めてのお出かけ。公園の景色を見て、話をして、美咲は「大好き」だと、それも「恋愛として」大好きだと言った。そして、またここに来ようと言った。
あれは、どういう意味だったんだろう。本当に、俺に恋愛感情を抱いているんだろうか? いや、そんなはずはない。きっと、美咲のことだから、何か勘違いしているんだ。俺のどこを好きになったんだ? きっと、美咲が理想の人物像を俺に重ねているだけなんだ。そうに違いない。そう思わないと、期待して、勝手に裏切られて、勝手に傷つくことになる。分かっているんだ。
でも……。
家に帰って、自分の部屋に籠城する。静かになった空間で、今日の美咲の笑顔や言葉を思い出す。
「恋愛としての、大好きだよ!」
あの言葉の響きが、頭の中でリフレインする。
どういう意味なんだ、美咲。お前は、俺に、どうしてほしいんだ。
俺のネガティブ回路は、まだ答えを出せないでいる。美咲の「大好き」という言葉は、俺の全てのネガティブな武装をあっけなく突破してくる。
でも、一つだけ分かることがあるとすれば……。
今日の美咲は、いつもより、さらに輝いて見えた、ということだけだった。
そして、俺の心の中も、夕暮れの空みたいに、少しだけ、オレンジ色に染まったような、そんな気がした。
そして、これからも、俺は美咲の「大好き」という言葉の意味を、ネガティブに深読みしながら、美咲に振り回され続けるんだろうな、ということだけは、はっきりと分かった。
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