九日目 灰の谷に、魔王は立つ

風が、乾いた大地を吹き抜ける。


 ここは魔界南部、灰の谷――半月前、大規模な地殻変動により地熱脈が暴れ、噴気孔と黒煙で住民が避難を余儀なくされた地域だ。


 瓦礫の中で、黒いマントを翻しながら、魔王ディオクレスは立っていた。


「……これは、ひどいな」


「現地の状況は予想以上です。建物は六割が損壊、農地は全滅……帰還には数ヶ月単位の再整備が必要でしょう」


 代行魔王・ルシフェッタが手元の資料をめくりながら報告する。だが、彼女の手はわずかに震えていた。数字では測れない“生活”が、失われていることが痛いほど伝わってくる。


「住民の避難先は?」


「北部の仮設村に収容済みです。ただ、魔力障害の後遺症を訴える者も多く……」


「……わかった。視察だけでは済ません。俺たちで、手を貸す」



 仮設村。そこは粗末なテントと板小屋が並ぶ、まるで放棄された市場のような場所だった。


 子どもたちは魔素の残る空気に咳をし、大人たちは地面に敷かれた布団の上で、無言で天井を見つめている。


「……魔王が、こんなところに?」


 住民の一人がぽつりとつぶやいた。まさか、遊んでる印象しかないディオクレスが来るなど思ってもいなかったのだろう。


 その声に、ディオクレスは軽くうなずいた。


「悪かったな。これまで城にこもって、ろくに見にも来なかった。だが、今日からは違う」


 そして、立ち止まり、しゃがみ込む。


 足元にいた少年に視線を合わせる。


「坊主、名前は?」


「……カザ」


「カザ。覚えた。お前の家、畑、村……全部、ちゃんと元に戻す。そのために俺は来た」


 少年は目を見開いた。数秒後、ぺこりと頭を下げる。


 ディオクレスは立ち上がり、ルシフェッタの方を向く。


「物資は?」


「輸送隊が三時間後に到着予定です。あとは、簡易シェルターの魔方陣を設置すれば夜露はしのげるかと」


「よし。俺は重機魔導具で崩れた土砂をどかす。お前は医療班の指揮を頼む」


「……了解。ですが魔王、どうか無理はなさらずに」


「これは“魔王としての仕事”だ」



 夕暮れ。


 重機魔導具「グラヴィタローダー」を操作し、巨大な瓦礫を次々と除去していくディオクレス。かつては戦場で破壊の限りを尽くしてきたその力を、今は“守るため”に使っていた。


「魔王様! こっちの坑道、崩落してます!」


「任せろ!」


 力を込め、全身に魔力を纏わせる。


「――雷断!」


 魔力の刃が走り、崩れた岩が一刀両断される。安全に空間が確保されたことで、下に閉じ込められていた作業員が救出された。


 汗だくのディオクレスに、現地の老婆が近づく。


「ありがとうよ、魔王様……命の恩人だ」


「礼はいい。代わりに、ちゃんと食って寝て、また畑仕事ができるようになってくれ」


 魔王らしからぬ温かい言葉に、老婆の目尻が下がる。


 一方、ルシフェッタも現地の魔医団と連携し、怪我人の治療、精神ケア、シェルター配布を指揮していた。


「呼吸器系の症状が出ている子どもが多いですね。――この霧を払える防魔結界を設置しましょう」


「でも、そんな高度な魔法陣、簡単には……」


「描きます。魔王城の設計図よりは簡単ですから」


 ルシフェッタの指先がすっと地面をなぞり、緻密な紋様が広がっていく。



 夜。


 仮設村の中央で、簡易焚き火が焚かれた。


 住民たちは、ようやく落ち着いた顔で食事をし、静かに笑い始めていた。そこに、魔王ディオクレスとルシフェッタの姿もあった。


「……今日は、よく動きましたね」


「ああ。久々に、体を張った気がする」


 二人は焚き火を見つめながら、静かに会話を交わす。


「魔王ってのは、玉座に座ってるだけじゃ駄目だな」


「……でしょう? それをずっとやってきたのは、代行の私ですけど」


「そうだな。お前がいなきゃ、とっくに魔界は崩壊してた」


 ディオクレスが、ルシフェッタを真っ直ぐ見て言った。


 ルシフェッタは少し驚いたような顔をしたあと、そっと目を伏せる。


「……ありがとうございます。でも、私は“本物の魔王”じゃない」


「それでも、お前は魔王以上に魔界を支えてる。誇れ」


「……はい」


 二人は、それ以上何も言わずに、燃える火を見つめ続けた。


 その夜、魔界の空は――珍しく、星が瞬いていた。

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