第3話 結ぶ契約

 暖かな木漏れ日が降り注ぎ、琉生と燈夜を照らしている──。


 琉生は香森家の現状を包み隠さず、すべて明かした。


 母が亡くなってから、さらに父からの扱いが酷くなったこと。


 月城新太に一方的な婚約破棄をされ、妹の麗子と婚約したこと。


 その麗子に母からの贈り物を奪われて父に捨てられたこと。


 どれだけ我慢し、苦しんで先ほどの選択肢を選んだのか。


 ただ母と燈夜の思い出だけが生きる力になっていたと感謝も伝えて。


 「……だから、こんな生活が続くのならば死ぬ方が良かったと、御影さまにあのようなことを申したのです。無礼な態度、どうかお許し下さい」


 燈夜は琉生が話終わるまで途中で遮らずに黙って耳を傾けてくれた。


 真剣に聞いてくれる彼に甘えてしまい、気がつけば心に蓋をしていた思いが溢れ出していた。


 すべてを出し切ると落ち着かせるように深く息を吐いた。


 「話してくれてありがとう。……つらかっただろう」


 琉生は目に涙を溜めながら必死に言葉を紡ぐ。


 走馬灯のように過去の出来事が脳裏を過る。


 良いことも悪いことも含めて。


 「きっとこれがわたしに課せられた運命なのです。どれだけつらくても悲しくても受け入れる道しかありません」


 この問題は簡単に変えられるものではない。


 燈夜だって優しいし話は聞いてくれたけれど、家族でも親戚でもない、ただの他人だ。


 少しの間でもこんな自分に寄り添ってくれた。


 それだけが琉生にとって救いで力になる。


 自ら命を絶つなんてもう馬鹿な真似はするつもりはない。


 もし死んで母がいる天国に行ってもあの人は喜んではくれない。


 むしろあの穏やかで優しい母でも怒るだろう。


 「御影さま、先ほどは本当にありがとうございました。これから先、香森家の娘としては生きられませんがわたしはわたしだけの役目を果たします。そろそろ屋敷に──」


 戻ります、と言おうとしたとき。


 「それで悔しくないのか」


 「え?」


 そこで初めて話を遮り問いかけた燈夜。


 思わぬ質問に琉生は呆けた声を出したあと目を瞬かせた。


 そんな彼女の表情で気持ちを悟ったのか、より真剣な面持ちで続ける。


 「酷い仕打ちをされたままで良いのかと聞いている。俺ならばそれ相応の報いを受けさせるが」


 「そんな、仕返しなんて考えたこともありません。それにそのようなことをすれば、わたしは無事ではいられませんから」


 あの麗子や父に逆らうなんていう考えなど今まで一度も浮かばなかった。


 ただでさえ彼女たちの怒りに少しでも触れれば罰が与えられるのだから。


 燈夜は鬼神で当主だから可能かもしれないけれど琉生は違う。


 何の力も持たない小娘だ。


 もし仕返しをしたらと想像するだけで背筋が凍る。


 顔を青ざめさせて何度も首を左右に振る琉生に対して燈夜は余裕のある笑みを浮かべた。


 「俺が力を貸そう」


 「力、ですか?」


 「ああ。俺が持つ力、すべてを利用してそいつらに復讐をするんだ」


 「ふ、復讐!?」


 何とも物騒な言葉に目を見開いたあと、一歩下がった。


 優しい彼からまさか『復讐』という言葉を聞く日が来るとは。


 「そいつに思い知らせてやればいい。君が受けた苦しみを」


 「でも復讐をしたあとは? わたしはどうしたら……」


 家から追い出されたらすべてを失うも同じ。


 琉生は香森家が好きじゃなかったけれど、その家にずっと守られていた。


 少量とはいえ食事が与えられて、おさがりだけれど着物も貰えて、雨風が防げる屋敷で眠る。


 父親や麗子の行為はとても許されることではない。


 しかしそれが琉生の灯火のような命を繋ぎ止めていてくれたのも確かな事実。


 視線を彷徨わせ戸惑っていると燈夜は相変わらず、優美な笑みを湛えたまま口を開いた。


 「どうだ、契約を結ばないか」


 「契約?」


 一つの提案に首を傾げると燈夜はしっかりと頷いた。


 「実は俺も周囲から早く身を固めろとうるさく言われていてな。だが、しばらくは任務に集中したいんだ。だから形だけの婚約者の存在が欲しい」


 「もしかして……」


 彼の言葉の続きが何となく予想がついて、ごくりと唾を呑み込む。


 燈夜はまるでそうだとでも言うかのように僅かに口角を上げた。


 「俺が復讐に力を貸す代わりに君を婚約者に迎えたい。それならば住む場所の問題も解決するだろう?」


 「ええっ!?」


 驚愕する声が辺りに響き渡り、近くの木にとまっていた小鳥たちが羽ばたいていく。


 次から次へと燈夜の口から驚かせる言葉が出てきて目が回りそうだ。


 「俺は婚約者を、君は家族に復讐を。どうだ、利害が一致したと思わないか」


 「で、でもわたしなんかが御影さまの婚約者だなんて。きっとご迷惑をおかけします」


 女学生時代から要領が悪い、愛嬌がないと散々言われてきた自分が燈夜の婚約者に相応しいわけがない。


 偽りの関係とはいえ、燈夜以外の御影家の人間だって反対するに違いない。


 何せ琉生じゃなくても教養のある素晴らしい女性は大勢いるのだから。


 しかし、そんな陰鬱な悩みを吹き飛ばずような佇まいを彼はしていた。


 「俺がそれぐらいでへこたれると思うか? 迷惑の一つや二つ、いくらでもかけるといい」


 「……!」


 自信に満ちていて堂々とした風格の燈夜は眩しく見えた。


 まるで目の前に現れた希望の光のようで、これを逃してしまえば一生、出逢えないと思えてしまう。


 (もう幸せなんか訪れないって決めつけていたけれど、本当はわたしだって……)


 琉生の中で新たな想いが芽生える。


 死を望むのではない、憎き相手に制裁を下して幸せになる。


 琉生は深呼吸をすると、まっすぐに燈夜を見つめた。


 「わたしが受けた苦しみをあの人たちにもそっくりそのまま与えたいです。出来ることは何でもいたします。どうかよろしくお願いします、御影さま」


 「契約成立だな。こちらこそよろしく頼む」


 手を差し出されて琉生は握手を交わす。


 そしてすぐに麗子への復讐の計画を立て始めたのだった。


          *


 「本当に上手くいくでしょうか……」


 あれから数時間後、琉生は御影家が所有する自動車に乗って香森家の屋敷の傍に来ていた。


 山を降りたあと燈夜は考えがあると言って、御影家の屋敷に彼女を連れて行った。


 彼が屋敷に女性を連れてきたのは初めてだったようで当然、使用人たちは大騒ぎ。


 あとで説明するとだけ言って自室の棚から取り出したのは美しい簪だった。


 黒蝶の意匠が施されていて、妖艶な雰囲気が感じられる簪にくぎ付けになってしまう。


 どうやらそれは燈夜の姉が持っていた物らしい。


 彼女は数年前に病気で亡くなっていて、生前に譲り受けたのだと話してくれた。


 燈夜はこの簪に手をかざすと強力な力を込めた。


 そしてそれを不思議そうに様子を見ていた琉生の髪に差し込む。


 「御影さま、これが復讐になるのですか?」


 「何でも奪いたがるその妹に会えばわかるさ」


 詳しくは話してくれなかったけれど麗子に簪を見せればいいらしい。


 先ほどの出来事を思い出しながら自動車から降りる。


 不安を呟いた琉生の肩に燈夜は片手を置いた。


 「大丈夫だ。俺を信じろ」


 「は、はいっ。頑張ります!」


 「今から復讐をする人間には思えないな」


 元気よく返事をする姿がおかしく思えたのか苦笑されてしまう。


 琉生は恥ずかしさで顔赤くさせながら歩き出す。


 (えっと、まずは一人で屋敷に入るのよね)


 敷地内に入ると、その姿を見た使用人が急いで玄関に入っていく。


 するとすぐにばたばたと足音を立てながら復讐をする相手がやって来た。


 「もう!お姉さまったら遅い!待ちくたびれちゃったじゃない」


 新太との観劇デヱトから帰ってきたのだろう。


 普段より化粧の濃い麗子が怒りをあらわにして腕を組んでいる。


 「洋菓子はちゃんと買ってきたのでしょうね」


 「……はい、これ」


 洋菓子が入った箱を差し出すと麗子は表情を歪めた。


 「何よこれ!箱が汚れているじゃない!」


 確かによく見ればハイカラな包装紙が薄く茶色に汚れている。


 恐らく地面に置いてしまったからだろう。


 それに加えて妖魔が現れて砂埃が舞ったから余計だ。


 「ごめんなさい。でも、中の洋菓子は無事だと思うから」


 「そんな汚い箱に入った洋菓子を私に食べさせるつもり? 最低ね、お姉さま。お父さまに言いつけて──」


 すると麗子の視線が箱から琉生の頭へと移る。


 「ねえ、その簪どうしたの?」


 燈夜の言った通りだ。


 麗子が神秘的に煌めく簪に興味をもった。


 琉生は怪しまれないように努めて堂々と話す。


 「婚約者の方から頂いたの」


 「お姉さまに婚約者? つまらない冗談はよして。二ヶ月前に新太さまから婚約破棄されたのをもう忘れたの? ああ、隠していたお金とかで買ってきたのでしょう」


 「これは本当に──」


 「ねえ。その簪を私に頂戴」


 もう洋菓子のことは忘れたようで麗子の目には簪しか映っていない。


 琉生は燈夜の指示の通りに首を左右に振って拒否をする。


 「嫌よ。これは大切な物なの」


 「お姉さまのくせに生意気ね。いいから早く私に渡してっ」


 麗子は手を伸ばして強引に奪おうとする。


 そして彼女の指が黒蝶の意匠に触れたとき。


 「きゃあっ!」


 簪から弾けるような音と共に眩い光が放ち、麗子はその反動で倒れ込む。


 琉生は一瞬、唖然とするがすぐに理解した。


 (御影さまが仰っていたのは、こういうことだったのね)


 何でも強引に奪う麗子の性格を利用して、簪に鬼神の力を流し込んだのだ。


 少し触れただけであの威力。


 改めて鬼神の強さを思い知る。


 身につける琉生には影響が及ばないようにしてくれたようだ。


 「何よ、その簪……」


 麗子は痛めた指先を抑えながら、上半身をゆっくりと起こす。


 琉生は彼女を心配する気持ちなんて湧き上がらなかった。


 (いつもは反対の立場だけれど)


 じり、と一歩近づくと冷たい目で麗子を見下した。


 今までの恨みを込めて。


 「これで反省した? 人の物を勝手に奪おうとするから、痛い目に合うのよ」


 「なっ……!」


 普段と違う強気の姉が気に食わないのだろう。


 悔しそうに唇を噛んで顔を真っ赤にさせている。


 「どうした、麗子!」


 悲鳴を聞きつけたのか、父の朔郎が数名の使用人を連れて走ってくる。


 一目散に座り込んでいる麗子に駆け寄った。


 彼女は琉生だけに分かるように、にやりと笑みを浮かべると眉を八の字に下げる。


 「もしかして、こいつにやられたのか?」


 「ええ、そうなの。お姉さまが身につけている簪が欲しいってお願いしたら突き飛ばされて……」


 涙ぐみながら赤くなった指先を父に見せる。


 (相変わらず変様が早いわ)


 このあと叱られるのが分かっているのに、琉生がのんびりと考えられているのには理由があった。


 「お前、麗子になんてことを!傷跡が残ったらどうする!」


 「わたしは何もしていません。その子が強引に奪おうとして勝手に倒れただけです」


 「私に口答えするのか!上等だ、躾直してやる!」


 朔郎は鬼の形相へと変貌すると立ち上がり、手を振り上げる。


 (恐れるものは何もない。だって今のわたしにはあの御方がいらっしゃるもの)


 琉生は目を瞑ることなく、その時を待った。


 「俺の婚約者に何をする」


 「……っ」


 振りかざされた手は琉生の頬に当たることなく空中で止まる。


 琉生は朔郎の腕を掴んでくれた人物へと視線を向ける。


 とびきり優しい笑みを湛えながら。


 「ありがとうございます、燈夜さま」


 「大切な婚約者を守るのは当然だろう? 琉生」


 「はっ!? 貴方さまはもしや……」


 『燈夜』という名前を聞いて朔郎は狼狽えながら顔を青ざめる。


 麗子はそんな父とは逆で、すぐに立ち上がると恋をした乙女のように頬を染めている。


 それも当然だ、燈夜は新太よりも舞台役者よりも華があるのだから。


 「お父さま、こちらの美しい殿方を知っているの?」


 「……御影家の当主、御影燈夜さまだ」


 「ええっ!あの鬼神の力をもっておられるという?」


 花が咲いたような笑みを浮かべながら興奮している姿は先ほどの出来事など忘れているようだ。


 朔郎はその場で正座をするとおそるおそる問いかける。


 「み、御影さま。先ほど娘のことを婚約者と仰ったように聞こえたのですが……」


 「ああ。琉生は俺の婚約者として迎え入れることが決まった」


 「えっ!? まさか、そんな」


 「お姉さまが御影さまの婚約者……!?」


 二人の驚愕した表情に思わず吹き出しそうになった。


 今までの悔しさがすうっと消えていき気持ちが晴れ渡る。


 初めて味わう優越感に浸っていると麗子がずいっと前へ出た。


 「御影さま!お姉さまなんかより、私の方が婚約者に相応しいです!必ずお役に立ってみせます!」


 心底、哀れに見えて呆れてしまう。


 姉から婚約者を奪っておきながら、また同じことを繰り返そうとしているのか。


 燈夜のことは信じているので心配はしていない。


 ただ一体どのような反応をするのか気になって、ちらりと見る。


 すると急に肩を抱き寄せられて彼との距離がなくなった。


 じんわりと伝わる体温に鼓動が早鐘を打つ。


 「お前のような非常識な女など興味ない。俺の婚約者は琉生しか考えられない」


 「……っ」


 恋心を一刀両断されて今にも泣きそうな麗子。


 新太よりも魅力的な男が下に見ていた姉の婚約者に。


 そして大勢の人間がいる前で失恋。


 悲しみと怒りと羞恥心が混ざったような複雑な顔をしている。


 そして琉生はそんな彼女に、にこやかに笑いかけた。


 「燈夜さまに愛されるなんてわたしはこの世で一番の幸せ者よ。ああ、それと今度からわたしのものを何か奪おうとしたら絶対に許さないから。どうか新太さまと末永くお幸せに。麗子、ごめんなさいね」


 わざと謝って煽るとさらにくしゃりと表情を歪めた。


 ああ、これが復讐なのだと快感を覚えるのは悪い子になった証だろうか。


 「……酷いわ、お姉さま!」


 そう吐き捨てると廊下の奥へと走り去っていく。


 慌てて使用人たちが追いかけてその場には三人だけが残った。


 たった今のざわめきが嘘のように静まり返る。


 「お前、御影さまの婚約者になることがどれだけ大変なことなのかわかっているのか」


 正座をしていた朔郎が立ち上がり厳しい眼差しを琉生に向ける。


 以前なら怖じ気づいていたがもう違う。


 隣には新たな味方の婚約者がいる。


 契約上の関係だけれど、前を向くのにはそれで十分だった。


 怯えることなく負けじと向かい合う。


 「はい、覚悟は出来ています。ゆくゆくは妻として姫巫女として燈夜さまをお支えします」


 「婚約破棄されても、ここにお前の居場所なんてないからな」


 この先、何があっても香森家の敷居を跨がせないつもりだ。


 燈夜の婚約者になると決めた時点で彼らの反感を買うのはわかっていたので特に驚かない。


 「心配するな。婚約破棄なんて天地天命に誓って絶対にしない」


 どうしてだろう。


 彼の言葉には説得力があって安心感を与えてくれる。


 きっとこれが依り代たちの頂点に立つ所以だろう。


 「……そうですか。琉生、もう麗子の前に現れるな。あの子が可哀想だ」


 「はい。わたしも今日で荷物をまとめて出て行くつもりでした。今までお世話になりました」


 「……」


 朔郎は一切、返事をせずに背を向けて廊下の奥へと消えていった。


 燈夜は琉生の肩から手を離すと腕を組み、何やら不服そうにしている。


 「あの男、腹が立つな。追いかけて制裁を下してやろうか」


 「きょ、今日のところはお気持ちだけで十分です」


 「そうか? まあ、機会ならいくらでもあるか」


 父の性格は罰を与えたところで変わるようなものでもないし、これ以上大騒ぎになったら面倒だ。


 まあ、隣に立つ男なら面倒になる前にすべて片づけそうだが。


 「御影さまのおかげで妹へ復讐を成し遂げられました。ありがとうございます」


 「君の復讐を手伝う、それが契約だからな。当然のことをしたまでだ。それに君の演技も中々良かったぞ」


 「あんな高圧的な態度なんてしたことがありませんでしたから緊張しました」


 「役者に向いているんじゃないか?」


 「もうっ……」


 からかいに頬を膨らませると燈夜はくくっと喉を鳴らして笑った。


 そして荷物をまとめに自室へ向かう直前、足を止めて振り返る。


 「またわたしを見つけてくださってありがとうございます。御影さま」


 「これからはいつでも力になって守ってあげるから」


 特殊な契約を結んだ二人は見つめ合って小さく笑った。

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