第2話 奇跡の再会
亡き母からの贈り物である巾着袋を奪われてから一夜が経過した。
(まったく眠れなかったわ)
布団に入って休んだぐらいで精神も身体も回復するわけがない。
泣き疲れて目は腫れぼったく違和感が残るし、突き飛ばされて打ったお尻は痛む。
娘は疲労困憊だというのに父も麗子もまるで何事もなかったように朝から元気だった。
夜には二人だけで高級料亭に食事に行くのだから人として正気を疑う。
そんな人物がよくここまでの地位にまで上り詰められたと逆に感心してしまうほどに。
きっとあの二人に関わった人たちの中で琉生のように傷ついた者もいるはずだ。
決して屋敷では吐き出せないような毒が渦巻いていく。
だからといって彼らと同じ行動を起こすような真似はしないけれど。
そんな俯いて歩く琉生の頭上を燦々とした日差しが狙う。
顔を上げて雲一つなく澄み渡る青空を憎らしげに見つめる。
(本当に春なの? 間違えて夏がきてしまったみたいな気温ね……)
今は春だというのに外は季節はずれの暑さ。
肌がじりつくような日差しが容赦なく寝不足の琉生を照らす。
睡眠不足、厳しい暑さ、栄養不足の三つが揃ってしまえば倒れるのも時間の問題。
足を止めて額から滴り落ちる汗をお仕着せ服の袖で拭った。
(こんなにも暑いのだったら、まだ屋敷で仕事をしている方が良かったわね)
普段は自由な外出などは許されていないのだが今日は違う。
『限定の洋菓子を買ってきて。午前中には売り切れちゃうから早く行ってきてね』
婚約者の新太と観劇デヱトに行く麗子が自分の代わりに買ってこいと言いつけたのだ。
女学院を卒業した琉生の屋敷での立場は完全に使用人だ。
麗子の機嫌を損ねると、その情報が父の耳に入るまでは早い。
父、朔郎は嫌っていた母に似ている琉生を強く嫌悪している。
彼の性格を考えればすぐに分かる。
溺愛している娘、そして時期当主の命令に逆らう者は罰を与える。
下手な真似をすれば、また面倒なことになる。
もう意見や泣き言など言えない。
嫁ぎにもいけない、姫巫女としての仕事も出来ない娘を屋敷に置いてくれているだけありがたく思うべきなのだろうか。
そんなことをハイカラな柄の包装紙に包まれた箱を両手で抱えながら、ぼんやりと考える。
朝一番に買いに出掛けたおかげで目当ての洋菓子は無事に手に入れることができた。
会計を済ませて店の外に出るとかなりの行列が出来ていたので、もう少し到着が遅れていたら売り切れていただろう。
しかし箱の中の洋菓子は琉生以外の三人分しか入っていない。
麗子と新太と父のみ。
まあ、最初から期待はしていないし渡された金額を見れば一目瞭然である。
女学生の頃は父から定期的に小遣いを貰っていた。
別に琉生を想ってではない。
娘に小遣いも渡さないケチな男だと世間から見られないようにするため。
琉生もそれは分かっていて、貴重なお金を無駄にはせず、ほとんどを貯金をしていた。
しかし、麗子に身の回りの物を奪われていくたびに代物を買っていたので手元には微々たる額しか残っていない。
使用人として働いたからって、どうせ給料が発生するわけでもない。
(これからもっと、やりくりを頑張らないと)
新品の振袖を仕立ててもらうなんてもってのほか。
他の使用人からお仕着せ服を譲ってもらったり着物の破れやほつれは裁縫で繕ったりしなければ。
(本当は巾着袋だって、あの程度だったら何とか補修して直ったのに……。お父さまが捨ててしまったから、もう欠片も残っていないわ)
足を止めて、やるせなさを感じたまま真っ青な空を見上げる。
先ほどまでは真っ青だったのに時折吹く風によって雲が浮かんでいた。
そんなゆったりと流れる白い雲にでさえ羨ましく思える。
風の吹くまま、誰にも縛られずに身を任せる雲。
(わたしも、ああなりたい。もしくはお母さまの傍にいられたらどれだけ幸せなのだろう──)
数量限定で売られている洋菓子を買い、持って屋敷に帰っても、どうせ『ありがとう』の一言も言われない。
今までだってそうだ。
物をあげてもお使いを頼まれても、礼の言葉も対価もない。
言われたり貰えたりすれば多少の救いになるのだが父や麗子にはそんな優しさはない。
彼女たちは自分が中心で生活が回っていると思っている。
母が亡くなってからは誰も注意をしないので、気遣いもできないわがままを詰め込んだような娘になってしまったのだ。
(麗子やお父さまに支配される生活が続くと思うと嫌になる。でも言いなりになっている自分はもっと嫌)
このまままっすぐに進めば、屋敷に帰られる。
──もし定められた運命から逃げて役目を放置したら?
ふと一つの選択肢が思い浮かんで足を止めた。
それは優等生である琉生にとって悪いことをするようで、ごくりと生唾を飲んだ。
唯一の味方の母はこの世にいないのだから、たとえいなくなっても誰にも心配されない。
この洋菓子だって何も今日、持ち帰らなくても自分で買いに行くか再度、他の使用人に頼めばいい。
どうして早く気がつかなかったのだろう。
そう考えるだけで不思議と肩の荷が軽くなったような気がした。
(そうだわ、お母さまが眠る場所に行こう)
父は母の墓を香森家から遠ざけるように、所有する山奥に建てた。
しかし、その山は墓を建てた時期から妖魔が現れやすくなってしまった。
依り代以外は立ち入ることが許されない危険域に指定されている。
きっと足を踏み入れれば無事でいられる保証はない。
それでも琉生の意識は固く、屋敷へ帰るという選択肢は消えていたのだった。
*
琉生は幼い頃に妖魔に襲われかけたことがある。
忘れもしない初夏の季節、まだ八歳の頃だった。
病で床に伏せていた母に元気になってほしくて花を摘みに勝手に屋敷を抜け出したのだ。
外へ行きたいと父や使用人に許しを乞うても首を立てに振らないことは幼いながらに分かっていたから。
ばれてしまったら、こっぴどく叱られる。
しかし今日は父と妹の麗子は百貨店に出掛けていて、使用人たちも休暇をとっている者が多く、屋敷は閑散としていた。
目を盗んで外出が出来る最大の好機だった。
琉生はそれを利用して誰にもばれないように忍び足で屋敷の裏口へ向かう。
周囲を警戒しながらそっと敷地の外に出ていき、安全を確信した上で駆け出す。
人通りはそこそこあったけれど通行人は元気な子が走っているな、というぐらいにしか見ていなく誰も気にしていないようだった。
まさかこの子供が内緒で外出をしているなんてつゆ知らずに。
琉生は普段から父親からの命令で屋敷内に囚われているので特に顔見知りもいないのが不幸中の幸いである。
琉生は麗子と同じくらい、いやそれ以上の姫巫女の力はきちんと備わっている。
それでもこうして差がついてしまうのは性格に問題があるから。
麗子の方が群を抜いて愛嬌がある。
ひとたび笑顔を向ければ誰もを癒すことが出来る天性の持ち主だ。
それに比べて琉生は何の特性もない普通の子。
別に笑わないわけではない。
喜怒哀楽を表せるし品行方正で教師を怒らせるようなこともしなかった。
でもそれが難な癖をもつ父親は気に食わなかったらしい。
よくこうも言われていた。
『天の麗子と地の琉生』
天女のように舞う美しい娘、日陰に立つのがお似合いの娘という意味合いをもつらしい。
何の取り柄もない琉生を由緒正しい香森家の娘として社交場に紹介するのは恥ずかしいといった理由で自由な外出を禁止にしたのだ。
大人しくて真面目すぎる女性が嫌いなのだろう、母のように。
しかし父親の思惑をすべて理解するにはまだ琉生は幼かったのだ──。
そんな琉生は近所の花畑に向かって一心不乱に道を駆け抜ける。
ぜい、ぜいと息を切らして目的地に辿り着くと、しゃがみ込んで花を摘んでいく。
「えっと、お母さまは桃色が好きだから……。あ、あと白も綺麗って言ってた」
母の言葉を思い出しながら花摘みに夢中になっていると後方でがさりと大きな音がした。
琉生は肩をびくりと震わせて振り向くと目を見開く。
視線の先には巨大な狼が唸りながら立っていた。
黒と紫を混ぜたような毒々しい色の煙を身体に纏わせている。
そして獲物を見つけたようにギロリとした赤色の目をこちらに向けていた。
今にも飛びかかってきそうな雰囲気にへたりと腰が抜けて地面に座り込んだ。
「よ、妖魔……?」
琉生は姫巫女を輩出する香森家の娘だが、まだ八歳。
書物に描かれている絵は見たことがあるが実際に妖魔と遭遇するのは初めてだ。
(に、逃げなくちゃ……)
そう思っても足が震えて立ち上がることが出来ない。
妖魔は立ち去るそぶりなど一切見せず、少しずつ琉生へと近づいていく。
爪も鋭く、その巨大な足裏で次々と花を踏み潰していく。
花は原形をとどめないほど粉々になってしまった。
直接見てようやく理解する。
書物だけでは分からない妖魔の恐ろしさを。
あまりの恐怖に心臓が痛いほど、ばくばくと鳴って呼吸も荒くなる。
すると、ついに妖魔は地面を勢いよく蹴って襲いかかってきた。
「きゃあっ!」
助けを求めようとしても周囲には人ひとりいない。
妖魔の恐ろしさを両親から何度も言い聞かせられたのに。
勝手に屋敷の外に出てしまった後悔が押し寄せるがすでに遅い。
動くことも出来ないまま咄嗟に目を瞑る。
きっと襲われたら痛いだけでは済まない。
痛みを感じる前に一撃で死ぬかもしれない。
手足が震えて全身が冷たくなっていく。
ぎゅっと身体に力を込めて衝撃に備えたとき──。
「はあっ!」
突如として辺りに男の声が響いた。
そしていつまで待っても受けるはずの痛みを感じない。
おそるおそる目を開くと制服姿でこちらに背を向けた青年が立っていた。
手には青い焔を纏った刃が特徴的な刀。
目を閉じている間に討伐したのだろう。
あの妖魔は倒れ、鋭い爪が生えている足から徐々に霧散している。
次々と巻き起こる展開に幼い琉生は状況を理解するのに精一杯だった。
「あ、の」
まだ心臓が早いままで治まる気配はない。
緊張からか額から汗が伝ってくる。
父以外の男性と会話する機会などまったくと言っていいほどなかったので、話し方などわからない。
ようやく二文字だけを発すると、青年はこちらに振り向いた。
(……綺麗な人)
制帽から覗かせる黒髪は艶やかで切れ長の目は宝石のように美しい深藍色。
薄い唇に、白く透き通っている肌。
生まれて初めてだった、こんなにも容姿端麗な男性を見たのは。
つい見蕩れていると青年はへたり込む琉生に歩み寄り、片膝を地面につけた。
「怪我はないか」
「は、はい」
「それなら良かった」
青年は安堵したように小さく微笑む。
しかし、一気に距離が縮まり、恥ずかしくなった琉生は咄嗟に視線を逸らした。
まだまだ子供だけれど、将来は姫巫女になる身分。
礼儀作法は学校でも習っているので今のこの行為が失礼だとは分かっていた。
それでも高鳴る鼓動と頬が熱くなるせいで言葉が上手く出てこない。
(早くお礼を言わないと)
この青年が着ている制服は依り代だけが通える学校のものだ。
香森家より、ずっとずっと高貴な存在。
無礼な振る舞いをすれば斬りすてられてもおかしくない。
「この霊力……。君は香森家の人間か」
琉生に宿る力を感じ取ったのだろう、僅かに目を見開くとすぐに元の表情に戻った。
こくりと頷くと勇気を出して顔を上げる。
まっすぐに青年を見つめると深藍色の瞳に琉生が映った。
「助けてくれてありがとうございます、依り代さま」
「礼など不要だ。俺は依り代として当然のことをしたまでだからな」
真っ赤にさせながら礼を言った琉生の頭に手を優しく置く。
母とは違う、男の人の手だった。
大きくて少しごつごつしていて勇気を与えてくれるような手。
緊張で身体は硬直してしまったけれど、撫でられるのは不思議と心地良かった。
頬を林檎のように赤くさせている琉生に青年は微笑ましそうにくすりと笑う。
そして青年は周囲を見渡すと立ち上がった。
「家族や付き人は? もしかして一人でここまで来たのか?」
「……はい。ごめんなさい」
ここで変に誤魔化しても仕方ない。
そもそも依り代である彼に噓をついたとしてもすぐに見破れられるだろう。
何も出来ない子供が大人の許可をとらずに無断で外に出てきたのだ。
こっぴどく叱られない方がおかしい。
しかし青年は怒るどころか小さく丸まって謝罪する琉生の前に片膝をついた。
目線を合わせるように顔を覗き込まれ、潤む瞳を見られてしまった。
恥ずかしさのあまり、慌てて着物の袖で隠そうとするが青年にそっと手で制止される。
「もう起きてしまったことは仕方ない。今回は運良く助けられたから良かったが、次はそうとも限らない。気をつけるんだぞ。約束出来るか?」
「……はい。お約束します」
「よし。良い子だ」
青年は朗らかに笑うと琉生の目尻に溜まる涙を人差し指でそっと拭う。
涙が消えたことを確認すると立ち上がり手を差し伸べた。
「家まで送る。立てるか」
「ひ、一人で帰れます。依り代さまにこれ以上、迷惑をかけるわけには……。それにお父さまに見つかっちゃったら、いっぱい怒られるから」
未だに微かに残る妖魔への恐怖、腰が抜けるような出来事の遭遇からか、喉がつまり声が震える。
両手で着物がシワになってしまうくらい、ぎゅっと握りしめた。
依り代は多忙の身だとよく耳にする。
任務で忙しい彼の面倒になるのは気が引けてしまうし、きっと屋敷に戻れば父に無許可で外出したことを怒られる。
『お忙しい依り代さまにお手間をかけさせたのか』と。
他人から見ればそんな不快な光景など見せたくはない。
視線を彷徨わせていると上から、くすりと笑う声が降ってきた。
「子供は子供らしく甘えておけ。君の両親への口添えもしっかりするから安心しなさい。それに、また妖魔が現れるかもしれない。民の保護も依り代の務めだ」
「依り代さま……」
彼の宝石のような瞳に希望の眼差しを向ける琉生が映った。
そこには嘘偽りなど一切なく、初対面のはずなのに不思議と安堵感を与えてくれる。
彼の言うとおり、これで無理矢理にでも一人で帰って再び妖魔に襲われたら、それこそ迷惑をかけてしまう。
僅かに思慮したあと静かに頷いた。
「……はい。お願いします」
「そんなに不安そうな顔をするな。何があっても君を守るから」
小さな琉生の手を包み込む大きな手。
細く柔らかい母の手とはまったく違う。
手先はそこまで太いわけではないけれど、剣術で鍛えたであろう剣ダコがあった。
少し顔を見上げれば天上人のような青年のご尊顔。
握られる手は男らしさを感じて、それが幼いながらに胸をときめかせていた。
じんわりと伝わる体温が怖かった想いを消し去ってくれるよう。
青年は落ち着きを取り戻した琉生を見て軽く頷くと、両端に草花が咲き乱れる遊歩道を歩き始める。
二人の間を通り抜ける風、妖魔が消えたことで再び木々の幹に戻ってきた小鳥たちのさえずり。
屋敷ではほとんど味わえないひとときの平和に浸っているのがまるで夢のようで心も身体もふわふわしてしまう。
最初は出来る限り置いていかれないように大股で歩いた。
しかし青年は琉生の様子に気がつくと歩幅に合わせながら歩いてくれた。
「ごめん、気がつかなくて」
「ち、違います。わたしが遅いから」
「そうか? でも大体の子供は君くらいの早さだと思うけれど。俺の方こそもっと相手を気遣わなくてはいけないな。これでは将来に困ってしまう」
「将来?」
その一文字の意味だけが分からず、こてんと首を傾げた。
青年はそんな琉生に慈しむように見つめた。
「未来の奥さんのことだよ。……って俺は子供相手に何を言っているんだ。今の話は忘れてくれ」
「は、はい」
自分自身に呆れるように眉を八の字にさせて笑う青年に対して琉生は何度も頷いた。
高貴な存在である依り代が忘れろと命じているのだ。
急いで脳内から追い出して違うことを考え始めて上書きをしていく。
(お父さまと麗子が帰ってきていませんように。あと使用人の皆にも気づかれてはいませんように)
まるで何度も流れ星に願うように。
きっと屋敷から抜け出したことが父の耳に入れば、こっぴどく叱られて酷ければ手も出されるだろう。
母はいつも味方になってくれるけれど床に伏せていれば守れはしない。
しかし今回の件はすべて自分の責任だ。
手を出されても仕方ないことくらいの認識はある。
この幸せは屋敷に入れば泡沫となって消えてしまうだろう。
それでも今だけは、この温かさを感じていたかった。
琉生はそっと青年の端整な顔立ちを見上げる。
これが彼女の淡い初恋となる。
そして彼が鬼神の力をもつ一族、御影家の長男の
*
(あの日を忘れたことは一度もない)
母が眠る墓所を目指しながら、遠い記憶に想いを馳せる。
あれから彼に会っていない。
依り代の中で最高位に君臨する御影家の時期当主なのだから多忙を極めるのは当然だ。
それに、あの日を境に琉生の監視は一層厳しくなったのも理由の一つである。
外出が許されたのは通学のみ。
登下校には監視役がついていたので逃げられもしなかった。
燈夜に助けられた日も案の定、父親にきつく叱られて叩かれた。
腫れ上がった頬を見て、その場にいなかった母にひどく心配もされた。
そんな母がきちんと手当をしてくれたので数日後にはほとんど元通りに。
それからというものの、屋敷内でも常に使用人が目を光らせていて気が休まらない日々が当たり前になった。
もし仮に燈夜に頻繁に目にかかれたとしても彼と結婚を、などと考えもしないだろう。
依り代と姫巫女は婚姻関係にあるものの、絶大な力を誇る燈夜に忌み子の琉生ではつり合わないので、すぐに諦めた。
燈夜だってこんな娘に恋されても迷惑極まりない。
彼に相応しい女性はこの世にごまんといる。
初恋は初恋のまま。
誰も傷つかず、不快な思いなどさせることはない。
それで線を引き蓋をして終わらせるのが一番平和で一番幸せだ。
それでも在学中に香森家と古い付き合いのある月城家の当主から新太との縁談が持ちかけられたので家の役に立てるなら、と了承したのだが。
自分も将来は恋愛結婚ではなく政略結婚をすると思っていたので特に驚きはしなかった。
ああ、自分の順番が回ってきたのだと。
それくらい父親からの決定報告も呆気なかった。
その時にはすでに母も亡くなっていて誰にも祝われなく、屋敷内では話題にもならなかった。
新太とは母が元気だった頃にパーティーで会っているらしい。
会ったといっても琉生と新太、二人とも随分と幼くて当時のことをまったく覚えていない。
婚約が決まってから新太は時々ではあったが香森家の屋敷に足を運んできてくれた。
それが父親である月城家当主の命令であったことには琉生でさえも勘づいてはいたが。
縁側に座ってお茶菓子をお供に他愛ない話をしたり屋敷の周辺を散歩したり。
周りから見れば、それくらいでデヱトと呼べるのかと疑問に思いそうだけれど琉生にとってはそれ以上のことは望まなかった。
つまらないとは思わなかった。
元々、何事にも反発心を持たず従順に育てられたからだろう。
しかしそれを不服に感じる人物がいた。
新太の恋仲ではない。
琉生の妹、麗子だった。
あの見下していた姉が殿方と二人きりで過ごしているという事実が許せなかったのだろう。
正直、麗子には新太への恋という感情があるとは思えなかった。
まあ、それは琉生とて同じだが。
それでも女性の理想像を描いていく彼女が妬ましく羨ましかったのだろう。
それからだった、麗子が行動を開始したのは。
婚約破棄を言い渡される以前から時折、麗子と新太の距離が近いとは思っていた。
自分のものを奪っていく妹でもさすがに婚約者までは奪わないだろうと過信してしまっていた。
それが後悔する点──過ちなのかもしれない。
(新太さま、わたしと話すときは冷たい表情をしているのに、あの子を見ている眼差しはとっても優しいのよね)
愛嬌があるというのは、こうも人を変えてしまうのか。
名前のとおり麗しい彼女と目鼻がくっきりとしていて容姿端麗な新太なら誰もがお似合いだと声を揃えるだろう。
奈落の底へと落ちてしまった琉生とは大違いだ。
きっと皆から祝福されて幸せな家庭を築くはずだ。
母がよく絶望の後には希望があると口癖のように言っていたけれど今回ばかりは信じられそうになかった。
はあ、とため息をこぼしなから墓所がある薄暗い山中へ入っていく。
妖魔が現れる禁域ということもあって山近くには民家すらない。
そのため、禁じられた場に入っていく琉生を止める者すら誰一人としていなかった。
母が眠る墓までの道中、ふと新太があのわがままな麗子に嫌気が差して二人が別れたらと考えてしまった。
(他人の不幸を想像してしまいそうになる。こんなことを考えてしまうなんて、わたしは最低な女ね)
左右に首を振って脳裏から追い払う。
別に今さら新太とよりを戻したいとは思わない。
思えば、あんな性格の彼と結婚をして幸せな家庭など築ける自信すらない。
向こうから復縁を求められても、こちらが願い下げだ。
「確か、この辺りのはずだけれど……」
朧な記憶を頼りにやや泥濘んだ道を進んでいく。
琉生が母の墓に手を合わせたのは建てられた当初だけ。
本当は行きたかったのだけれど、想いだけでは父の圧力に勝てなかった。
母方の実家の人も母を追い出すように香森家に嫁がせたようで、ここが禁域になる前もまったく来ていないようだった。
鳥を初めとした野生の動物さえも潜んでいる気配がないのはおそらく、いや絶対に妖魔が原因だろう。
妖魔とは道中の間に遭遇すると思っていたけれど、今のところは静かだ。
「はぁ、はぁ……。思っていたより歩きにくいわ」
草木が生い茂り、歩く琉生の邪魔をする。
着物や草履はすでに泥で汚れていて、身体中から汗が吹き出ていて気持ち悪い。
伸びすぎている木の枝が重なって風も通らない。
それに山道は整備されていない凹凸がとにかく目立つ。
時々、つい足首を挫いてしまいそうになるほどの大きい石を踏んでしまう。
妖魔が現れるせいで人が寄りつかなくなったので余計、酷くなったのだろう。
ようやく細い道が開けると琉生は一度、息を吐いてから足を止めた。
「……着いたわ」
視線の先には一つの墓が建てられている。
墓所といっても母以外の人間の墓はない。
ずっと、ずっと孤独に眠り続ける場所。
琉生は知っている。
母は昔から病弱だったけれど、父からの日々の罵倒に心を病んでいたことを。
子供たちの前ではいたって気丈に振る舞っていたが時折、深夜に泣いていたのを見たことがある。
心配して問いかけても誤魔化して本当の気持ちを打ち明けてはくれなかったけれど。
きっとそれも影響して母は永遠に覚めない眠りについたと、父を恨んだ。
父だけではない、苦しんでいた母を救えなかった自分も。
一歩ずつ、ゆっくりと墓に近づく。
墓石には苔も生えていて母が亡くなってからの年数がうかがえる。
「お母さま、会いたかった……」
抱えていた洋菓子が入った箱を地面に置き、そっと墓に触れようとした瞬間。
「……っ」
背後から急に琉生の背丈をはるかに上回る影が差した。
まさか、と心臓が強く打ちつけて振り返ると妖魔がこちらに襲いかかろうとしていた。
それも幼い頃に遭遇したときと同じ種類の妖魔。
身体の大きさだけが変わっていて、恐ろしさが増している。
全身の毛が逆立ち、こちらを威嚇しているようだ。
こんな妖魔に襲われたら、まず命は絶対にない。
以前の琉生だったら不可能だとしても逃げていた。
死にたくない、生き続けたいと。
(でも、もういいの)
奇跡的に助かっても屋敷に帰れば地獄の生活が待っている。
生きていることを喜んでくれる人もいない。
そうだとしたら死んで母の元へ逝く方が断然幸せだ。
琉生はくすりと笑うと目を静かに閉じた。
死の間際に笑うなんて、端から見ればおかしい光景だろう。
それでも今、一番望むのは地獄から抜け出して天国に行くこと──。
山一帯に響くような咆哮が聞こえ、覚悟を決めたとき。
「はあっ!」
低く、凜々しい声が聞こえた。
この声を知っている。
一瞬だったけれど、すぐに分かった。
忘れるなんて、なかったことにするなんて出来るはずがない。
だってこの声の主は──。
「久しぶりだな、香森家の娘。お前はいつも危険な目に遭っているな」
優しさと希望をくれた初恋の人だから。
「み、御影さま……?」
「どうした、そんな幽霊でも見たような顔をして」
「本当に本当に御影さまなのですか?」
聞くまでもない。
こんなにも美しい美丈夫はめったに存在しない。
確実に琉生の恩人で初恋の相手の御影燈夜。
だが、記憶と重ねると随分と成長して美しさに磨きがかかっている。
初めて出逢ったのは彼が青年だった頃なので、ある程度は変わっているはずなのだが。
面影は残しつつ、大人の色気が増している。
「ああ、そうだ。俺が御影家の当主、御影燈夜だ。そういう君も相変わらずのようだな」
そう言うと燈夜は刀を鞘にしまう。
ちらりと視線をずらすと巨大な妖魔は倒れ、徐々に霧散していく。
粒となって消えていくのは完全に討伐された証拠だ。
「どうして御影さまがこんな場所に……」
「それはこちらの台詞だ。君が立ち入り禁止の山に入っていく姿を近くを偶然通りがかった民が見つけて連絡をくれたんだ。間に合って良かった」
「そう、でしたか」
(今回も御影さまに助けられたのね。でも)
嬉しくない、むしろ邪魔をされた気分だ。
そんな感情が心を占めている。
命がけで助けてもらった身分なのに、これでは罰が当たる。
でも、これで保護されれば、決めた覚悟が無駄になり、すべてが元通りになる。
燈夜だって琉生の事情など知らない。
「どうした、そんな浮かない顔をして」
俯く琉生に違和感を覚えたのか燈夜は不思議そうに問いかけた。
もう嫌われてもいい。
お礼ではなく本音をぽつりとこぼした。
「……助けてくれなくて良かったのに」
言ってしまった。
最悪で最低な言葉を。
訪れる静寂。
木々の葉が擦れ合う音だけが耳朶を撫でる。
そして最初に沈黙を破ったのは燈夜だった。
「何が君をそこまで悲しませている?」
琉生は目を僅かに見開いた。
怒られる、飽きられると思っていたのに彼の言葉にそれが感じられなかったから。
しかし琉生も強がって平静を装い、答える。
「生きていてもつらいだけだから、です」
「……何かあったのだな。もし良ければ話を聞かせてくれないか」
母が亡くなってから初めてだった、人に優しくしてもらったのは。
もしかして素直になれば何かが変わるだろうか。
(ううん、変わらなくてもいい)
結果がどうであれ、ただ伝えたかった。
この胸に抱えている孤独、悲しみ、苦しみを。
分かってほしいとまでは言わない。
純粋に話したいと思った。
「どうして、こんなわたしに優しくしてくださるのですか」
俯いていた顔を上げて問いかけると燈夜は小さく笑った。
「何故だろう。昔から君みたいな人を見ていると放っておくことが出来ない性格なのかもしれない」
相談相手が俺なんかで良ければ、と最後に付け加えると深藍色の瞳に射抜かれる。
拒絶しようとしていた気持ちが揺れ動いたような気がして胸を両手で抑える。
琉生は落ち着かせるように息を吐き出すと、秘めていた真実をすべて燈夜に明かしたのだった。
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