手足が長いもの

もち

第1話


 ちゃぶ台の上に湯気の立つ味噌汁の匂いが広がっている。父さんがテレビを見ながら、ご飯をかきこんだ。

「コンビニまで車で二十分ってのは、ちょっとなあ……」

「でも空気はきれいよ。朝なんて、鳥の声しかしないんだから」

 母さんが嬉しそうに言うと、妹が箸を置いてうなずいた。

「うん。山のにおい、するもん。木のにおいっていうか」

 僕は味噌汁を啜ってから、何気なく言った。

「でもWi-Fi入らないし。YouTube、止まるし」

「贅沢言うな、贅沢を」

 父さんが笑った。母さんも苦笑する。

「まあ、しばらくはここで暮らすんだし、慣れていかないとね。自然も豊かだし、虫さえいなければ最高」


 数週間前のこと。父さんの転勤で僕ら家族は某県山間部の村へ引っ越してきたのだ。都会暮らしが長かった僕らはあまりの辺鄙さに辟易していたが、住めば都とは言うもので、新しい暮らしをそれなりに楽しんでいた。

 僕らが家族団欒を楽しんでいた、そのとき。玄関のチャイムが鳴った。

 一度だけ、間を置いて、もう一度。

「……誰かしら、こんな時間に?」

 母さんが立ち上がっていった。玄関から、少し押し殺した声が聞こえる。

 やがて戻ってきた母さんの後ろに、小柄な老婆が立っていた。髪は白く、背は曲がり、黒っぽい割烹着を着ている。

「すみません、夜分に。大家の堀内です」

 老婆はぺこりと頭を下げた。

「ひとつ、お知らせに来ました」


 玄関のすぐそば、居間の敷居に腰を下ろした堀内さんは、手にしていた小さな紙袋をことりと置いた。

「明日の朝から三日間、この村じゃあ決まりでね、皆で山に上がるんですよ」

「山に……?」

 父さんが怪訝そうに言うと、堀内さんはこくりとうなずいた。

「白装束を着て、村の決まった場所に集まって、三日三晩を山で過ごします」

 言って、紙袋の口を母さんのほうへ向ける。

「これ、そちらの分。四人分入れてあります」

 母さんは言葉を探すように眉をひそめた。

「えっと……そういうの、私たち、聞いてなくて……」

「そうでしょうとも。転勤で越してこられたばかりじゃ、知らなくて当然ですわ」

 堀内さんはやわらかく微笑んだが、その目元はどこか鋭かった。

「でもね、この村にいる限りは、どなたも皆、山へ行くんですよ」

「でも私たち、またいつ転勤になるかもわからないし……」

 母さんが困ったように笑うと、堀内さんは口元をほんの少し歪めた。

「何百年も、そうしてきましたから」

 それきり、老婆はそれ以上の説明をしなかった。

 沈黙が居間に降りる。隣で妹が、母さんの袖をそっとつまんだ。

 父さんは曖昧に笑って、軽く頭を下げた。

「とりあえず、ありがとうございます。受け取っておきますね」

「ええ。よろしくお願いします」

 堀内さんはまた、深く頭を下げると、ゆっくりと立ち上がって帰っていった。

 ドアが閉まると、ぱたりと夜が戻ってくる。しばらくして、母さんがぽつりとこぼした。

「……なんか、古いっていうか……こういうのがあるから、田舎って苦手なのよね」

「信仰とか風習とか、なんか妙に強いよな」

 父さんが小声で笑うと、妹もなんとなくつられて笑った。僕は、ちゃぶ台の上に置かれた白い紙袋を見つめていた。まるで、中に人の肌でも入ってるかのように、生ぬるく感じられた。


 翌朝から、村は静まり返った。窓の外には人影もなく、郵便受けのそばにいた野良猫すらいなくなっていた。

 ごくたまに通るのは、鳥の声と、風で揺れる木の葉の音だけ。堀内さんの言っていたとおり、村人たちはみんな山に上がったらしかった。

 昼過ぎには、父さんが「今日はさすがに営業ないし、のんびりしよう」と言い、母さんも「晩ごはんはカレーにしようか」と言っていた。

 僕は宿題を広げ、妹は色鉛筆でなにやら絵を描いていた。静かだった。だけど、それがだんだん不安に変わっていく。

 日が落ちたころには、どこかの窓のシャッターが、風もないのにガタガタ鳴った。

 母さんは「まあ、老朽化してるのかしら」と言ったが、父さんは何も言わなかった。

 夜の九時過ぎ、家が、わずかに揺れた。

「……地震?」

 母さんが言った。でも、スマホの通知は来ていなかったし、テレビの速報も出なかった。

 揺れ方も変だった。ぐらり、とか、ゆさゆさ、とかじゃない。家の土台を、巨大な手で下から押し上げられたような、ぬるい跳ね返り。

 その後も、少し時間を置いて、何度も似たような揺れが起きた。妹が怖がり、父さんは念のためにブレーカーを落として懐中電灯を出した。

 そして、十時を過ぎたころ。

「……ねえ、なんか変なの見えた」

 妹が、ぽつりと言った。ソファに座って、窓のほうを見ていた。

「何が?」

「わかんない。手とか、足とか、すごく長くて……。人間じゃないと思う」

 母さんが慌ててカーテンを引こうとしたとき、リビングのガラス窓に、何かがぬらりと映った。

 手だった。

 でも、五本の指が異様に長く、ひとつひとつの節が異様に曲がっていた。まるで、人間と猿を足して二で割ったような――いや、それとも別の何か。

 ガラス越しで、顔は見えない。ただ、肩から上にかけて、毛のようなものがびっしりと生えていたのが、うっすらと見えた。

「やだ……やだ……」

 妹が震え、母さんが必死で抱きしめた。父さんが懐中電灯を向けたときには、それはもういなかった。

 誰も眠れないまま、朝になった。

 次の日の朝、空は驚くほど晴れ渡っていて、昨夜の異常な出来事は、まるで悪い夢だったかのようだった。

 父さんが外に出て、軽く周囲を見回してから言った。

「……戻ってきてるよ。村の人たち」

「え? 三日間のはずじゃあ……」

 母さんと僕が玄関先に出ると、たしかに向かいの家の雨戸が開いており、洗濯物が干されていた。

 坂の上の方からは、子供の笑い声も聞こえた。

 だけど、なんというか、どこか、違和感があった。

 人々の動作がゆっくりで、表情が薄い。まるで、全員がどこか夢の中を歩いているように見えた。

 登校の時間。妹と一緒に学校へ向かう途中、向かいの家の奥さんとすれ違った。

 その人は、妹を見た瞬間、きゅっと口元を歪めて、こう言った。

「……まあ。お気の毒にね」

 言葉の意味がわからなかった。妹は、何も聞こえなかったふりをした。

 だけど、それからも――学校に行っても、買い物に行っても、そんな風に「妙な目」を向けられることが増えていった。

 隣のクラスの男子が、帰り道でこう尋ねてきた。

「お前んとこ、山登んなかったんだろ? ……なんで?」

 目が、笑っていなかった。

 放課後、妹のランドセルの中に、紙切れが入っていた。小さな、三つ折りの和紙に、墨で何かが書かれている。

 それは、めちゃくちゃな筆跡で、たったひとこと。


 「たたりがはじまる」


 意味はわからなかった。でも、妹は震えて泣いた。そして、その夜。

 妹が風呂から上がったあと、母さんが「また?」と小声でつぶやいた。妹の腕に、指の跡のようなアザが、いくつもできていた。細くて、節くれだった、不自然な形の指。

 妹は、昨夜と同じことを言った。

「……夢の中で、また会ったの。あのおばけに……私のこと食べようとしてた」

 母さんは、妹の体を抱きしめて「もう無理」と言った。

 父さんも黙ってうなずいた。冗談を言うような雰囲気ではなかった。

「月曜の朝イチで会社に連絡する。……もうここ、出よう」

 家中の空気が、急に冷たくなった気がした。でも、それ以上に救われた気持ちもあった。

 その夜、僕は眠れずにいた。妹も両親も、どうやら同じだったらしい。家のどこかで、床がミシッと鳴るたびに、誰かが息をのむ気配がする。

 午前二時すぎ。

 僕はなぜか、台所の蛇口がぽたぽたと滴る音で目を覚ました。起きてみると、蛇口はちゃんと閉まっていた。でも音は――

 玄関の方からだった。そっと廊下を歩いて、靴箱の影に身を潜める。音は、玄関ドアの向こう側から聞こえていた。水の滴る音。ぴちゃ、ぴちゃ……。

 何かがいる。ドアのすぐ外に。それから、カチャ、と音がして、ドアノブがわずかに回された。

 僕はその場から一歩も動けなかった。


 次の朝。村を出る準備は整っていた。

 父さんは無理やり有給を取って、母さんは妹の転校手続きを途中で放棄した。

 家を出る直前、大家の堀内さんが道端に立っていた。黙って僕らの車を見つめていた。意味ありげな目をして。

 車が村の出口に差しかかったとき、後部座席の妹が小さくつぶやいた。

「……いた」

「なにが?」

 母さんが振り向く。妹は窓の外を見ながら言った。

「昨日の夜、玄関のとこにいたやつ。あいつ、いまもいる」

「どこに?」

「わからない。見えない。でも、くっついてる気がする」

 そう言って、妹は自分の足首をさすった。そこには――青黒くなった、手の跡が、残っていた。


 引っ越してから一年が経った。あの村のことを家族で話すことは、もうほとんどない。父さんも母さんも、新しい環境に慣れたようだ。妹も元気に学校へ通っている。

 ただ――僕だけは、時々思い出す。村のあの夜のこと。

 くもりガラスの向こうに見えた、異様に長い手足。

 妹の腕に残った、指が六本あるように見えた痣。


 ――あれは、何だったんだろう。


 気になって、僕はこっそり村の名前をネットで調べた。でも地図にも出てこないし、名前を入れてもヒットしない。不思議と、住所も記録も、見つからなかった。

 ある深夜、眠れずにSNSを眺めていたときだ。“田舎の風習”というタグで、似たような話を見つけた。

 ――どこかの山間の村で、毎年、全員が白装束で山に登る習慣がある。村人はその晩「山のもの」が下りてこないよう、見張るのだと。

 ただし、ひとつだけ決まりがあるという。

 「誰か一人でも、山に登らなかった家があれば、その家に“手足の長いもの”が入ってしまう。そしてその家の者を若い順に――」

 それを読んだとき、背中が冷たくなった。スマホを持つ手がじっとり汗ばんでいた。

 ……ふと、気配を感じて顔を上げる。自室の窓の外。夜の闇の中に、何かが――ぬるりと、立っていた気がした。




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