第21話『その扉の向こうに』


 白い廊下に、彼女の足音が淡く響いていた。

 オーディション本番。音楽室の前、心臓の鼓動だけがやけに大きく感じられる。


 「大丈夫、大丈夫……」


 そらは、手のひらを胸元に当てて、何度も自分に言い聞かせた。

 それでも、緊張で喉が乾き、手が微かに震えていた。


 扉が開き、係の人が小さく頷く。

 「綾瀬そらさん、どうぞ」

 呼ばれた名前が、まるで他人のものみたいだった。


 「はい……!」


 そらは息を吸い込み、一歩、また一歩と音楽室に足を踏み入れる。

 壁に並んだ審査員たちの冷静な視線が、空気をより重くさせる。


 グランドピアノの前へ歩き、ピアニストに軽く会釈した後、そらは深く一礼した。


 「綾瀬そらです。よろしくお願いします」


 静寂が、室内に満ちる。

 ピアノの伴奏が始まると、そらの中で何かが切り替わった。


 (怖がらなくていい……私は、私の歌を歌えばいい)


 最初の一音。

 声が空気を震わせる。

 まるで翼を持ったように、そらの歌声は教室の隅々まで広がっていく。


 切なくて、でも温かい歌詞。

 この数ヶ月間、毎日繰り返した練習。泣いて、笑って、迷って、それでも前に進もうとしてきた日々。


 そのすべてが、彼女の声に宿っていた。


 審査員の一人が、目を細めた。

 別の審査員は、何かメモを取りながら、静かに頷く。


 最後のフレーズ。

 息を大きく吸い込んだそらは、少しだけ目を開いた。


 (届いて……)


 声が、真っ直ぐに空を貫くように放たれる。

 ピアノが静かに収まり、余韻だけが教室に残った。


 「ありがとうございました」


 深く礼をして、そらはそっと退室した。


 廊下に出た瞬間、全身の力が抜け、壁にもたれかかる。

 「終わった……」

 でも、心はどこか、清々しかった。


 「お疲れ!」


 ふいに声がして、そらは驚いて顔を上げた。

 そこには、制服姿の悠真がいた。


 「……悠真?」

 「サプライズ見学だよ。玄関からそっと入って、音楽室のガラス越しに見てた」

 彼は少し照れ臭そうに笑った。


 「めっちゃよかった。いや、マジで鳥肌立った。俺、歌とか詳しくないけど……そらの声、心に刺さったよ」


 そらの目に、涙が浮かんだ。

 今まで、誰かに歌を褒められることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。


 「……ありがと。悠真がいたから、ここまでこれた」

 そらがぽつりと呟くと、悠真は照れたように頭を掻いた。

 「そらが頑張ったんだろ。俺なんか、見守ってただけだよ」


 その言葉に、そらはふっと笑った。


 放課後の校舎、誰もいない中庭に出て、ふたりは並んで歩く。

 夕焼けがガラスに反射して、悠真の横顔が少しだけ赤く染まっていた。


 「もし、落ちてても……もう後悔しない。自分のすべてを出せたから」

 「……でも、受かっててほしいな。そらの歌、もっといろんな人に聴いてほしい」


 風がそっと髪を揺らした。

 ふたりの間に流れる空気は、これまでよりも、少しだけ近かった。


 そして、数日後。


 教室に先生が入ってきて、そらを呼んだ。

 「綾瀬、ちょっと職員室まで来なさい。いい知らせだ」


 クラス中がざわめき、そらは胸が高鳴るのを抑えきれなかった。

 数分後、教室に戻ってきた彼女の目には、涙がにじんでいた。


 「合格……した」


 その言葉が告げられた瞬間、教室が歓声で沸いた。

 彩花が駆け寄ってきて、そらの手を取ってぐるぐる回る。

 「やったじゃん! ほんとに、ほんとにおめでとう!」


 その後ろで、悠真が控えめに笑っていた。

 そらと目が合うと、彼は静かに親指を立てた。


 ――扉は開かれた。

 でも、それはゴールじゃない。

 彼女の音楽の旅は、これから本当の始まりを迎える。


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『きみにしか聞こえない風の声』 優貴 @snowking0925

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