第14話『くちびるの距離、心の距離』
秋晴れの朝。教室に差し込む光は柔らかく、心地よいはずだった。
なのに、そらの胸は、ざわついていた。
――昨日、音楽室で見た悠真と凛の姿が、ずっと脳裏を離れない。
凛の視線。
悠真の、曖昧な表情。
そして、自分の中に生まれた小さな「不安」という名の棘。
「おはよー、そらちゃん!」
その声に、そらは反射的に振り向いた。
そこにいたのは、笑顔を浮かべた凛だった。
栗色の髪をツインテールにまとめ、制服のリボンもゆるくアレンジされた“完璧なスクールガール”。
「一緒に帰ろっか? ね、今日の放課後!」
キラキラした笑顔。でも、どこか鋭さを感じる。
「……あ、うん……いいけど……」
言葉を濁した瞬間――
「悠真も誘っておいたよ? 3人でね!」
それは、断れない誘いだった。
***
放課後。駅までの帰り道。
並んで歩く3人の間には、妙な空気が流れていた。
「さーて、そらちゃんは最近どう? 悠真と、よく一緒に音楽室にいるって聞いたけど」
「……うん。文化祭の曲の続きを……」
「そっかぁ。でも、悠真って昔から、私と一緒にバンド組んでたこともあってさ、懐かしいよね?」
凛は悠真の袖に自然に触れる。
悠真は一瞬困ったようにそらの方を見た。
「……まあ、昔の話だよ。もうバンドは解散したし」
「でも、忘れられないよ? 悠真のギターの音も、あの時の空気も」
凛の声は笑っていたけれど、その裏に隠された“何か”が、そらの心に刺さった。
自分は、その“思い出”にはいない。
今、ようやく少しだけ近づけたと思っていたのに――
「……そら?」
声が耳元で響く。
いつの間にか、駅のホームに着いていた。
電車の音が、遠くから近づいてくる。
その音に混じって、凛の声が聞こえた。
「そらちゃんって、悠真の“どこ”が好きなの?」
――時が止まった気がした。
周囲の喧騒が、遠くなる。
凛は無邪気な顔で笑っていたけれど、問いは鋭く、核心を突いていた。
悠真が言葉を止める。
そらは、視線を足元に落とした。
そして、小さく息を吸った。
「……まだ、好きとか、そういうのじゃない。でも……」
顔を上げる。
光に揺れる髪。瞳はまっすぐだった。
「でも、悠真くんといると、世界がすこしだけ綺麗に見える。音が、もっと優しくなるの」
電車がホームに滑り込む。
凛の笑顔が一瞬、固まった。
「ふーん……そうなんだ」
そして、凛は先に電車に乗り込んだ。
電車のドアが閉まる直前、そらの肩にそっと触れる手。
「……ありがと」
それは、悠真の声だった。
目を細め、どこか安心したように微笑んでいた。
「さっきの言葉……すごく嬉しかった。俺、やっぱりそらと音楽やってたい」
ドアが閉まる。電車が走り出す。
悠真の背中が、車窓の向こうに遠ざかっていった。
その夜、そらは久しぶりに一人でピアノに向かった。
譜面にはまだない旋律。
心の中でうごめく不安、優しさ、切なさ――それを、音に変えていく。
(私は、私の音を、見つけたい。たとえ誰かに揺さぶられても)
夜の音楽室で鳴ったその音は、
――確かに、少しだけ強くなっていた。
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