第9話『沈黙の理由、交差する心』



 火曜日の放課後。空はどこまでも晴れていた。

 けれど悠真の心は、昨日からずっと、曇ったままだった。


 


 (そら……今日も来てない)


 


 誰に聞くでもなく、わかっていた。教室にもいなかった。中庭にも、音楽室にも。

 まるで、世界からひとりだけ姿を消したかのように。


 


 悠真はひとり、階段を上がった。誰も使わない旧校舎の三階。


 ギシッ、と床板が軋む。

 重たい音が、彼の気持ちを代弁しているようだった。


 


 音楽室の扉を開けると、昨日と同じ景色が広がっていた。


 ――だけど今日は、そこに“あるもの”があった。


 


 譜面台の上に、スケッチブック。

 その表紙には、そらの字でこう書かれていた。


 《見てほしい》


 


 悠真はゆっくりとページをめくった。


 一枚目――いつかふたりで笑い合った中庭。

 二枚目――ピアノに向かうふたりの背中。

 三枚目――それを少し離れたところから見つめる、そら自身の表情。


 それは、笑っていなかった。


 


 ページの隅に、言葉が添えられていた。


 《わたしの耳では、音は聞こえない》


 


 (……え?)


 


 頭の中で、時間が止まった。


 次のページ。


 《でも、あなたといると……音が浮かぶの》


 《ふたりで奏でた旋律は、わたしの“記憶”の中に響いた》


 


 悠真は震える手でページをめくる。

 そこには、そらの涙が描かれていた。


 《けれど……それは、偽物なのかもしれない》


 《わたしが“聞いたふり”をして、あなたを騙していたのかもしれない》


 


 心臓が強く脈打つ。


 音のように、胸を打つ。


 


 そらは耳が聞こえなかった――

 それでも、音楽を愛していた。世界を感じていた。


 


 そして、自分と音を交わすことに、恐れを抱いていた。


 


 悠真は、スケッチブックを抱きしめるように閉じた。


 


 (そんなの……違う)


 


 脳裏に蘇る。あの日の旋律。

 不器用で、でも心が重なった、あの音の時間。


 


 それは、偽物なんかじゃなかった。


 


 「俺は……音を、伝えたいって思ってた。ちゃんと、そらに……」


 


 彼の声は静かに、空の中に消えていった。


 


 その時。


 


 ギィ――


 


 音楽室の扉が、わずかに開いた。


 その向こうにいたのは――


 


 「……悠真くん」


 


 そらだった。


 制服の袖を握りしめ、少しだけ怯えた顔。


 でも、その目だけは、まっすぐだった。


 


 「どうして……来たの?」


 


 悠真は、何も言わずにスケッチブックを差し出した。


 そして、言葉を紡いだ。


 


 「ありがとう、教えてくれて。でも……俺は、嘘つかれてたなんて思ってない」


 


 そらの目が、大きく揺れる。


 


 「音ってさ、耳で聴くだけじゃないんだって……昨日、気づいた」


 「そらと一緒に弾いたとき、心が揺れた。俺の中に、ちゃんと響いたんだよ」


 


 そらの喉が震える。言葉は出ないけれど、彼女の瞳は、まるで声のように震えていた。


 


 「だから……もう、逃げんなよ」


 「俺も、ちゃんと伝えるから。そらにも、音にも」


 


 そらは、唇を噛んで――そして、小さく頷いた。


 泣きそうな顔で、でも笑っていた。


 


 手が、ふたつ重なった。

 何も言わず、ただそっと。


 あたたかいぬくもりが、ふたりの距離を溶かしていく。


 


 交わらなかったはずの心が、やっと――重なり始めた。

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