第8話『届かない声、揺れる距離』



 月曜日の昼休み。


 中庭のベンチに、そらの姿はなかった。


 


 悠真は、教室から出るとすぐに中庭を見た。

 いつもなら、あの場所に彼女は座っているはずだった。スケッチブックを膝に、風に髪を遊ばせながら、まるで風景の一部のように。


 


 けれど今日は、そこに誰もいなかった。


 


 (……いない)


 


 悠真の足が止まる。


 理由もなく、胸の奥がざわつく。

 不安というより、「違和感」に近い感覚。淡くて、でも確かな。


 


 「おーい、悠真!」


 


 瑞希が駆け寄ってきた。何気ない顔、けれどその口元には微かに気まずさがあった。


 


 「そらちゃん、今日休みだって。……知ってた?」


 


 「……え?」


 


 瑞希はポケットからスマホを取り出すと、そっと見せてきた。


 そこには、そらからの短いメッセージ。


 「今日は行けません、ごめんなさい」


 


 (そらが……俺には何も言わなかった)


 


 その事実が、胸に小さく棘を刺した。


 


 「なんかさ、気になってさ。前に、旧音楽室で一緒に弾いてたでしょ? あの時、すごく楽しそうだったよね」


 


 「……見てたのかよ」


 


 「うん。でも、そらちゃん……ちょっと違った。いつもの笑顔が、どこか遠くて」


 


 悠真はその言葉を、胸にしまい込むように受け取った。

 そらの笑顔。その柔らかさの裏に、彼は何を見ていただろうか。


 


 (俺は……本当に、あいつを知ってるのか?)


 


 午後の授業は、まるで何も頭に入ってこなかった。


 


 夕方。


 悠真はひとり、旧校舎の音楽室を訪れた。

 昨日、ふたりで奏でた旋律の余韻が、まだ空気の中に残っているようだった。


 


 鍵盤を一つ押す。

 音は響いたが、そこに彼女の旋律はない。


 


 ――ポツン。


 


 音の余韻が、空虚に消えていった。


 


 (そら……どうしたんだよ)


 


 ピアノの前に置かれた譜面台の上に、白い紙が一枚置かれていた。


 悠真はそっとそれを手に取る。


 


 《ごめんね。今日は、音が出なかった》


 


 彼女の字だった。


 絵のように優しい文字。だけど、その一行には、音が、温度が、なかった。


 


 「……そら」


 


 悠真は紙をそっと胸にしまい、窓の外を見た。

 雲が流れ、風が吹き、夕陽が落ちていく。


 


 目の前にあるはずだったものが、少しだけ遠くなったような気がした。


 すぐ手を伸ばせば、届くはずなのに。

 言葉をかければ、伝わるはずなのに。


 


 でも、なぜか――その一歩が踏み出せなかった。


 


 そして夜。


 悠真は、スマホの画面を何度も開いては閉じた。

 「大丈夫か?」と、一言を送るだけの勇気が、どうしても出なかった。


 


 その頃。


 そらは、真っ暗な自室の中で、静かにスケッチブックを抱きしめていた。


 ページの隅に描かれているのは、あの音楽室の風景。


 でも、そこに悠真の姿は描かれていない。


 


 (今の私じゃ、また音が出せない……)


 


 彼女の頬を、静かに涙が伝った。


 


 そして、描かれた一行。


 「私のせいで、音が消えちゃう気がした」


 


 誰にも見せることのないその言葉が、夜に溶けていく――


 


 音のない夜。


 届かない声。


 揺れる距離。


 それでも、ふたりの想いは、確かにそこにあった。

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