第5話『クラスメイトのざわめき』



 朝のホームルーム前――

 教室の空気は、ざわざわとしていた。


 いつものようにガヤガヤしているようで、どこか違う。

 まるで、「何か」が水面下で渦巻いているような。


 


 悠真は、教室に入った瞬間、その違和感に気づいた。


 


 「……ん?」


 


 黒板前で女子グループが密かに何かを囁き合っている。

 後方の男子数人は、スマホを見ながらニヤついていた。


 彼の目がそらされている間に、その視線が一斉に集まる。


 けれど、すぐにすっと逸らされ、元の会話に戻っていく。


 


 「……なんだよ」


 


 席に着いた悠真のもとに、金髪の軽音部男子・瑞希(みずき)がやってきた。


 「おーい、悠真〜!モテ期到来らしいぞ?」


 「……は?」


 「ピアノ、弾いたらしいじゃん。しかも、そらと。ふたりきりで」


 「なんで、それを……」


 「昨日、窓の外から見てた子がいるんだってよ。で、それがあっという間に噂に」


 


 その瞬間、悠真の頬がかすかに熱を持った。


 


 「ま、悪い話じゃないっしょ? なんせ“高嶺の花”そらちゃんとの連弾だもんねー」


 


 教室の後ろでは、女子数人が小声で囁いていた。


 


 「聞いた?悠真くんとそらちゃん、昨日ふたりきりで音楽室にいたんだって」

 「手、重ねてピアノ……とか、漫画かよ」

 「え、ガチ? でもちょっとお似合いかも……」

 「いやでも、そらって、静かで特別な感じだから……」


 


 その中にいた一人、クラスのムードメーカー的存在・桜井ひなこが声を潜めて言う。


 「悠真ってさ、今までそらちゃんにあんな顔してなかったのにね」


 


 その言葉が、なぜか悠真の心に刺さった。


 


 そしてその時、そらが教室に入ってきた。


 


 白いイヤホンを外しながら、静かに歩いてくるその姿に、クラス全体が少しざわつく。

 けれど、彼女は気づかないふりをする。いや、ほんとうに気づいていないのかもしれない。


 


 悠真と目が合った――ほんの一瞬。

 そらは柔らかく微笑み、頷いた。


 


 その何気ない仕草に、クラスの空気がまた揺れた。


 その後すぐ、桜井ひなこが立ち上がり、そらの机の前へと向かう。


 


 「ねぇ、そらちゃん。昨日、ピアノ弾いてたんだって? 悠真と?」


 


 その声に、数人がぴくりと反応し、耳をそばだてる。


 


 そらは少し驚いたように目を瞬かせ、それから手話を交えてゆっくり返す。


 《うん。連弾したの》


 


 「へえ……悠真、ピアノ弾けたっけ?」


 


 どこか含みのある声。


 悠真は立ち上がろうとしたが、そらが先にゆっくり首を振る。


 


 《彼は初めてだった。でも、音があたたかかった》


 


 その一言に、ざわついていた空気が一瞬静まった。

 そして、桜井ひなこは、軽く笑って言った。


 


 「へえ……そっか。いいな、それ。私も聴いてみたかったな」


 


 そらは静かに微笑み返す。


 その微笑みに――誰も、何も言い返せなかった。


 


 ***


 


 昼休み、悠真は屋上にいた。


 


 強い風が制服の裾を揺らす。

 手すりに寄りかかりながら、彼は深いため息をついた。


 


 「……こんなことになるなんて」


 


 ピアノを弾いた。それだけのことだ。

 でもそれが、こんなにも周囲の空気を変えるとは、思っていなかった。


 


 「……面倒くせぇな」


 


 「そう思う?」


 


 背後から聞こえた声に振り返ると、そらがいた。

 風に髪がなびき、目を細めて笑っている。


 


 《ごめんね。私のせいで》


 


 「ちげーよ……そらのせいじゃない」


 


 悠真は照れたように後頭部をかいた。


 


 「でもまあ、驚いた。あんな噂になるとはな」


 


 そらはノートを取り出し、ゆっくりと書く。


 


 《悠真がそばにいてくれて、うれしかった。それだけで、私は十分》


 


 その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。


 


 「……俺も、楽しかったよ。ほんとに」


 


 ふたりは並んで、空を見上げる。


 淡い春の雲が、ゆっくり流れていく。


 


 その瞬間、ほんの少しだけ、世界が優しくなった気がした。

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